京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「イエスを知っていますか」(ルカによる福音書22章よりの説教)

 
 京北教会の玄関わきに植えられた一本の棕櫚(シュロ)の木。
 下から空を見上げると、このように葉の様子がよくわかる。
 そよ風に、たくさんの細い葉が、さわさわと動く。
 たくさんの人が、手を振っているようにも、ふと、見えた。
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 2012年 4月1日(日) 京北教会 「棕櫚(シュロ)の聖日」礼拝

 説教「イエスを知っていますか」
 聖書 ルカによる福音書 22章 54~62節
 讃美歌21 412「昔 主イエスの蒔きたまいし」
           313「愛するイェス」
       280「まぶねの中に」

 出席者数 25名

 礼拝後 ・軽食(炊き込みご飯とおつゆ、黒豆)
        おいしくいただきました。ご用意に感謝いたします。

        今日は、中国の方2名(祖母と孫)が礼拝に来られました。
       礼拝後の食事にも残ってくださりました。

        中国語で礼拝をしている教会を京都で探しておられる、
       とのことで、牧師が、以前一度だけ京北教会の礼拝に、
       来られたことのある、台湾から同志社神学部への留学生に、
       電話をして尋ねてみると、京都に一箇所あるとのことで、
       その留学生が、今度直接その場所へ案内してくださるとの、
       話の運びになりました。良かった。
        食事後に、お孫さんが通訳をしてくださって、
       おばあさんから中国の教会の話を少ししていただきました。
       また、日本生活が長いお孫さんからは、堪能な日本語で、
       日本の大学での生活のこと、等々の話をしてくださり、
       実に感謝でした。いい出会いをいただきました。
       日本語礼拝でよろしければ、また京北教会へもどうぞ!
      
 
     ・4月定例役員会

 4月の定期教会総会(22日)の前なので、
 その準備のために、少し長めの役員会となった。
 休憩のお茶の時間も含めて、約三時間。
 皆さん、長時間ありがとうございました。



 教会の暦で「受難週」に入る日である、
 今日を「棕櫚(シュロ)の聖日」というのは、
 イエス・キリストが都に入城されたときに、
 都の群衆たちがシュロの葉を手に持ち、
 大きく振ることで、
 歓待の気持ちを表したことによる。

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 群衆たちはこのとき、ホサナ! ホサナ! 
 と叫んで、喜んだ。
 (「ホサナ」とは、
 「主よ、救い給え」が言葉の元の意味であるが、
 この時代には、神への様々な讃美の気持ち、
 また感嘆や感銘、喜びを叫びで表現するための、
 一種のかけ声として用いられる単語になっていた言葉)

 イエスの到来を彼らは、
 自分たちの本当の救い主の到来だと信じて、
 シュロの葉を振って歓待し、喜んだ。
 しかし…

 その週の内に、
 イエスは、都の権力層の人々からとらえられ、
 十字架に打ちつけられ、その苦痛の中でイエスの命は終わった。

 都の群衆は、一度は期待した「主」が、とらえられて、
 十字架につけられたとき、手のひらをかえしたように、
 あざけわらった。

 「お前が神の子なら、今すぐ十字架から降りてこい、
 そうしたら信じてやろう。」
 そんなふうに愚弄した。
 
 十字架に打ち付けられて、全身の苦痛の中、
 身体がやがて機能を停止していく。
 十字架刑は、むごい刑である。 
 国家に対する反逆のような重大な罪にのみ適用された。

 群衆の中には、このときに天から何かが降りてきて、
 イエスを救い出すかもしれないと思い、
 その様子を見ようと目をこらす者たちもいた。
 だが結局、何一つ、奇跡らしきことは起こらなかった。
 
 エスはただ一人の人として、十字架の上で死んだ。
 事実はそこで、終わる。

 しかし、聖書は、そこで終わっていない。
 現在の私たちに至るまで、長く読み継がれてきた、
 聖書は、イエスの十字架の死で終わっていない。

 「希望は失望に終わることはありません。」
  (ローマの信徒への手紙5章5節)

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 棕櫚(シュロ)の葉を振って、
 イエスを出迎えたときの希望は、あっけなく終わった。

 しかし、聖書の示す物語世界は、
 人間の希望を裏切って、
 かつ、人間の失望をも裏切って、
 神のみこころを私たちの前に描き出す。

 もういちど、イエスを、今度はキリストとして、
 私たちが心にお迎えすることができるように、と。

 キリストとは「主」という意味である。
 我々の生に対する救いの「主」、イエス・キリスト

 聖書と教会は、この方を語り継ぐ。

 
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 夕刻、来週の礼拝のための百合の花を、
 担当の方が、つぼみのまま生けに来られた。
 来週に咲くように。

 イースター(キリストの復活)を記念する、
 来週の礼拝。

 ゆっくりと待とう。

 その日、そのときを。

 希望が失望に終わらなかった日を。



 2012年 4月1日(日) 京北教会 「棕櫚の聖日」礼拝説教


 聖書 ルカによる福音書 22章54~62節

 「ペトロはそれを打ち消して、『私はその人を知らない』と言った。」


 説教題「イエスを知っていますか」

 今日の聖書には、イエスを裏切った弟子のペトロが登場します。
 彼はイエスに一番近い弟子であることを自負していた人、
 そのことに誇りを持っていた人です。

 その誇りゆえに、
 他の誰がイエスを裏切ったとしても、
 「私だけは」裏切らないという意味の言葉を、
 イエスに対して宣言していました。
 (ルカの箇所では言葉が違いますが、
 マルコとマタイ福音書の記事にはそうあります)

 「私だけは」絶対に裏切らない、と本人の前で言うのは、相当な自信です。

 「私だけは」という言葉は、人間の本音です。
 私だけは、と言って誓うときに、
 それはもちろん切なる思いの表れなのですが、
 同時に、自己中心的な思いでもあります。

 「私だけは」というとき、自信が湧いてきます。
 同時に、他人への優越感が湧いてきます。
 そして、心が高ぶり、高揚感が湧いてきます。


 それだけではなく、「私だけは」という言葉は、
 どこか人の感動を呼び起こすような気すらしてきます。


 そして、その言葉を聴くことによって感動してくれることを、
 相手に求めるのです。


 しかし、イエス様は、ペトロの「私だけは」という気持ちに対して、
 そこから出るペトロの言葉に対して、
 感動されませんでした。


 それどころか、イエス様は、ペトロに対して、
 あなたは今晩鶏が鳴く前に、三度、
 私を知らないというだろう、と言われました。


 知らない、というのは何の関係も無いという意味です。
 そして三度というのは、完全に、という意味です。


 ペトロにとって、このようなイエス様の言葉は、
 実に気持ちに反する言葉でありました。
 ペトロは大きな不満、そして、
 なぜそんなことをイエスは言うのか、
 という疑問を持ったでしょう。


 私はこんなにあなたに対して、
 救い主だと信じて、特別な気持ちを持っているのに、
 なぜイエスはそれを否定するのかと、
 腹を立てたかもしれません。


 それは、言葉を代えて言えば、
 私は、「私だけは」あなたを裏切らないと言っているのに、
 なぜ、あなたはその言葉に感動をしてくれないのか、
 という、相手が自分の思い通りにならないことへの、
 いらだちでもありました。


 けれども、そのあとに、実際にイエスが、
 とらえられたときには、ペトロは、
 他の弟子達全員と共に逃げていきました。


 「私だけは」という気持ちは、そのとき、
 何の意味を持たなかったのです。

 それでも、ペトロは、逃げたあとに戻ってきて、
 なんとかイエスの近くに行こうとします。


 大祭司の屋敷の庭に入り込んで、自分の素性を隠してもぐりこみ、
 内部の様子をうかがおうとします。

 しかし、たき火にあたっているときに、周囲の人から、
 おまえはイエスの仲間ではないかと、疑われます。
 そこには、エスに一番近い所にいた、
 ペトロの顔を覚えている人もいたようです。
 さらに、ペトロのしゃべる言葉が、
 出身地ガリラヤのなまりであることから、
 素性がばれそうになります。

 繰り返し問われる中で、
 ペトロは三度、私はイエスを知らないと答えます。
 私はイエスと何の関係もありませんと力説します。

 そして、そのとき、夜中に、鶏が三度鳴きました。
 まだ次の朝は来ていないときです。
 イエス様が言ったとおりに。
 
 エス様が言われていたことの意味は、今晩、あなたは、
 私だけは決して裏切らないと言ったけれども、
 その言葉は、朝が来る前に、
 あなた自身が否定することになるのだよ、
 というものでした。


 朝が来る前に、つまり、同じ夜の間に、
 時間が継続しているうちに、ということです。


 明日になれば人間は違うことを言う、そういう面があります。
 新しくお日様が昇れば、もう、
 昨晩の自分と、今の自分は、同じではない、
 と言い張ることができてしまうこともあります。
 
 けれども、鶏が夜中に鳴く前に…
 夜が朝に変わっていくその前に…
 あなたは、私を裏切る。
 「私だけは」裏切らないといった自分と同じ自分として、
 イエスを裏切る。

 …そういうことでありました。
 本当にその通りになりました。
 そしてペトロは、
 イエスの言葉の意味を、
 はっきりとわかったとき、
 「外に出て、激しく泣いた」と記されています。


 皆さんは、イエスを知っていますか。
 それは、イエスについての知識を知っていますか、
 ということではなくて、
 皆さんは、イエスと関係がありますか? 
 …ということです。


 そう言われたら、皆さんは少し困るのではありませんか。
 自分がイエスと関係があるかないか…そんなことはわからない、
 と思いませんか。あるような、ないような。
 知ってるような、知ってないような。


 しかし、今日の箇所のペトロを見てください。
 イエスを愛している自分も、イエスを裏切る自分も、
 同じ一人のペトロであること、その現実をイエスから教えられて、
 激しく泣いたペトロを。


 泣く、それは自分が壊れることです。壊れてしまうことです。
 自分の意に反して。


 私たちは、決して自分が壊れることを望みません。
 同じ自分であり続けることを望みます。
 けれども、同じ自分であるがゆえに、自分は人を裏切ってくのです。
 そんな自分というものが、このとき壊れました。

 違った言い方をすると、イエス様がペテロの心の固い壁、
 自信、そして自己中心的な信仰という、
 固い壁を壊してくださったのです。
 「私だけは」という、固い壁を。

 このとき、ペトロは、イエス様と関係のある人になった、
 つまりイエスを本当に知ったのです。

 イエスがあなたの心の壁を壊してくださったとき、
 そのときから、あなたはイエスと関係がある人になります。
 イエスを知った人になります。


 そのように、心の壁が神様の方向から崩されるとき、
 それが真の悔い改めなのです。
 

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 夕刻。

 教会の前の児童公園の、樹木の影が壁に大きくかかる。

 棕櫚(シュロ)の木が、その壁際に、一本植えられている。


 それは、イエス・キリストの生涯を、想起させる。
 
 

 今日から受難週。