(上の写真は2017年撮影)
─京都教区「秋の研修と食事の会」を訪れて─
(元宣教師住居の建物「クラッパードイン」を訪れて)
主催 日本キリスト教団京都教区教師部
研修テーマ「魂の配慮の場としての教会・牧会を考える」
(上写真は2011、ピース・ミュージック・フェスタのとき)
建物名の「クラッパードイン」とは建物の愛称で、
住んでいた、三人の宣教師の名前をつないだ造語であるとのこと。
(クラップさん、ビハードさん、グインさん)
一本目の角を西に入って法務局の建物の隣にある。
元々はアメリカの教会から派遣されてこられた宣教師が住む建物。
現在は、市民有志と京都教区が協働して運営する、
「バザールカフェ」という名の喫茶店がここで開かれている。
(追記)
★バザールカフェ創設者の一人で、2018年に逝去された、
榎本てる子さんによる解説(2008年)は以下アドレス。
https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei/pdf/department/theology/0000122999.pdf
★バザールカフェ創設者の一人で、2018年に逝去された、
榎本てる子さんによる解説(2008年)は以下アドレス。
https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei/pdf/department/theology/0000122999.pdf
今までバザールカフェに関わってこられた、
すべての皆様、
ありがとうございます!
すべての皆様、
ありがとうございます!
(注記)
バザールカフェ(クラッパードイン)に関する記事は、
今回以外にもあります。
バザールカフェ(クラッパードイン)に関する記事は、
今回以外にもあります。
今回のブログは、京都教区教師部の秋の研修会の報告です。
ほかに、京都教区「教師部」の研修会一覧報告(2009〜16年度)が、
下記のアドレスをクリックすると開きます。よろしければご覧ください。
さて、この日は、
講師からのお話を聞き、休憩をはさんで、質疑応答。
その後に庭で6時半からバーベキュー。
教区の教師部主催ではあるけれども、牧師だけでなく、
信徒の方たちも参加が可能な会として開催。
その結果たくさんの方が申し込まれた。
遠方の教会からも、他教区からも申し込みがあった。
学生も来た。教区のいろいろな委員会の方も来られた。
いろいろな方と共に、みんなで協力して造り上げる研修会となりました。
集会の内容は、発達障害(アスペルガー症候群、高機能自閉症、など多様な呼称や様態があり、一言でひとつにくくることができない)と言われる事柄について、当事者の方と、その方の友人であり共に課題に関わっておられる牧師からお話を聴くというもの。お二人は、発達障害という言葉よりもあえて「自閉症」という言葉を用いてお話された。
下はプロジェクターを用いてのお話のときの写真。
下の写真は、講師のうち一人の方の著書の表紙。自ら描いた絵によって、御自身の経験、特性、思いを実にわかりやすく伝えてくださっている。この研修会でも、プロジェクターで絵を映し出しながら、お話してくださった。
『あたし研究──自閉症スペクトラム~小道モコの場合』
(クリエイツかもがわ出版 2009)
興味深い話だった。お二人の講師にお礼申し上げます。
下の写真は、この日の研修会の準備中の様子。
ふだんのカフェの机やイスを片付け、研修会用にセットしなおす。
この広さの中に50人も入るのだろうか? とやや不安もありました。
最終的に、皆様のご協力によって、
満員お礼という感じで、研修会ができました。感謝です。
バザールカフェの方、日頃はお店として使っている場所を、
教区の働きに提供していただき、ありがとうございました。
ブログへの写真掲載の許可も含めて、感謝いたします。
バーベキューも盛大に行いました。
お米は、丹波で農家もしておられる牧師が、
自家製で作られているもの。
何を食べても、おいしいのなんのって。
(会場での写真の多くは、教師部委員長が撮影してくださったものを用いています。
撮影ありがとうございました)
みんなで、たくさんいただきました。
炊いたご飯の一部と、使わなかったお肉の一部が、
某出席者のお土産になりました。
午後2時から会場に入って準備を始めて、
4時研修開始で、6時半から夕食で、
8時すぎに終了しました。
その後に後片付け。
実に多くの、教区の教師・信徒などの方たちが、
協力してくださりました。
ありがとうございました。
ある日の夕方、京北教会庭の酔芙蓉(すいふよう)。
酔芙蓉は、赤と白の2種類の花があるのではなくて、
同じ花が朝、昼、夜と色が変わるそうだ。
そう初めて知ったとき、驚いた。
朝は白色、昼は桃色、夕方には紅色になる。
ゆっくりと階調をつけて変わりながら。
しかも、その変わり方は花によって違うので、
いつも、無数のように、多彩な色の花が枝についている。
無数の色、無数の形をしながら。
知らないことが、身近なところに、いつもたくさんある。
「なぜですか」と誰に問えばよいのだろう。
日々生まれてくる、生きるための「なぜ」についても。