今日は礼拝後に毎月一回の「お茶と祈りのとき」をもった。
お茶とお菓子で自由に歓談し、その中で個人消息などを聞き合う。
教会としての課題を話し合うこともある。
ゆっくりと、それぞれに思っていることを、何人かの方が話した。
いつもは、毎月第二週の日曜日礼拝後の、この「お茶と祈りのとき」のときには、ときの最後に、その時々で違う3人ほどの有志の方にお願いして、それぞれに自由な内容でお祈りしていただくときを持っているが、今日は震災の被災地におられる人々のことを思って、お茶の場につどったこの日の「全員」で一分間の黙祷のときを持った。
教会は先週から、教会のこよみで「受難節」(レントと呼ばれる)という期間に入っている。
4月24日(日)のイースター(復活日)までの一ヶ月半ほどの期間、イエス・キリストの十字架、受難の意味を心に覚え、また自分や他者の受難についても、神の前でそれが持つ意味を想って、祈ってすごす期間である。
「お祈り」というと、私は苦手です、という方々はどこにでもおられる。
それはそうだろう。
けれども、祈る心がないわけではない。
言葉にならないだけだ。
今日、わたしたちは言葉にならない思いをもって、みんなで黙祷した。
言葉の力によらず、私たちは主イエス・キリストに頼って、黙祷した。
これが、私たちの受難節の祈祷会であったと言えるかもしれない。
お茶のときの報告の中に、お孫さんが入試に合格したとの話があった。
震災とは何の関係もない話であるが、私たちの心がなごんだ。
絶望を感じる日も、希望を感じる日も、同じひとつの日。
どこにいても、私たちは神様から、同じ一日をいただいている。
共に生きるための、ひとつの一日を。