聖書 ルカによる福音書6章20~21節
「イエスは、目を上げ弟子たちを見て言われた。
『貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。』」
説教 「己に耐える木」
皆さんは、人に向かって、
「あなたは貧しい人ですね」と言うことができるでしょうか?
おそらくできないと思います。
それは、相手の怒りを買う言葉でありましょうから。
貧しいという言葉が、人間の様々な思いを刺激することを、
私たちは知っているのです。
それが、人を怒らせる言葉だと。
それは、人を馬鹿にするときの嘲りの言葉ともなることを。
そして、貧しいという言葉を、どこか怖がりながら、
私たちは、いろいろなことを思います。
「私だって貧しい」「貧しい人は自分で努力しなければ」
「貧しくても心は立派な人だっている」
「貧しくても自分が気にしなければいい」
「貧しさだって、ある意味でその人が選んだものであることもある」
「私は豊かに見えていたって本当は大変なんだ、それに比べれば…」
…いろいろな言葉、いろいろなことが頭に浮かびます。
私たちは、どうしてこんなに、
「貧しい」という言葉に右往左往してしまうのでしょうか?
貧しい人間の嫉妬、怒り、恨み、その他いろいろな感情が、
どれだけ恐ろしいか…。
そのことを、私たちは他人事や、単なる想像ではなく、
自分自身の中に突き上げてくる、
自らの「本音」を通してわかっているのです。
貧しい、つまり、
人よりも何かが足りないと思うときには、私たちは…
自分を卑下する。卑下すると嫉妬する。
嫉妬すると憎む。そんなマイナスの感情が繰り返されます。
そんな、あれこれのことを考えると、
私たちは、貧しいという言葉も現実も、
どちらをも恐がり、避けてしまいます。
しかし、もういちどここで、
イエスの言葉を聴いてみましょう。
「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」。
これは、この世の理屈ではありません。
大切なことは、神様から、あなたがたの一人ひとりに対して、
「あなたは貧しい人だ」
「だから、あなたは神のものだ」
そう言っていただけることに、幸いがあると知ることです。
「あなたがたは神のものだ」と言われているのと同じことです。
あなたがどんなに貧しくても、豊かでも、
神様からあなたが、
「貧しい人」と呼んでいただけるとき、
それは、あなたが、神のものであると、
宣言されているときなのです。
私たち一人ひとりが、
自分の経済的なプライドやらなんやらと関係無しに、
神様につかみとっていただけることが、
幸いなのです。
「貧しい」という言葉一つに、
恐れを感じて右往左往している心、
私たちの心…
それは、おそらく全ての人間の心…は、
決して「豊か」では無いのです。
貧しい人々は幸いである、というイエスの言葉は、
全ての人、一人ひとりと、神様の関係において、
聴かれるべき言葉でありましょう。
私たちは、神様から、
「貧しい人々」と呼ばれることを、
決して、避けてはなりません。
それは、大切な愛の言葉を聴くことをも、
避けることになるからです。
貧しさを恐がり、避けて、
自分を守ろうとする、
そんな己に耐えながら…
神様によって赦されて、
用いられていきましょう。
そして、教会は神の恵みの言葉を証しする、
一本の木として立ち続けて、
実りを結んでまいりましょう。
(以上、2012年3月18日(日)京北教会礼拝説教)