教会庭の二本の夏ミカンの木に数百個なった果実を、今日の礼拝後に収穫した。みなさん総出で力を合わせてくださった。感謝。
青かった果実が色づいてから三ヶ月間、マーマレードにするのに適した質にするために、木にならせておいたものである。木に肥料をやったりするなどの手入れは、いっさいしていない自然のもの。
最初は、手が届く範囲にある果実の枝を、はさみで切ってとにかくどんどん落としていく。
それを集める。
入れ物にいれていくと共に、果実についた葉つきの枝をはさみで取る。
二本の木になった果実の総数は200~300個ぐらいだろうか。きちんと数えている時間がないほど忙しいのでだいたいの見当。
いろいろな入れ物を動員して、入れていく。
入れ物がいっぱいになると、運ぶ。
ここで余談。上の写真で、奥に見えているの建物は、教会に住み込む人のための住居で、現在は牧師が住んでいる。この建物は、一戸建ての体裁の家を、教会の礼拝堂のある建物に内部で連結する形で建てられている。玄関はそれぞれ別にある。この住居部分の建物は、1941年に教会が烏丸五条付近から下鴨に移築してきたときに、合わせて新規に建てられたのではないかと思うが、もしかしたら1924年に教会の一部として一緒に建築されて、一緒に移築されてきたのかもしれない。2階建て4DK(一階が8畳洋間+8畳和室+6畳洋間DK、二階が8畳洋間+4畳和室)とかなり広い。古い日本家屋であり、庭に面した縁側、ふすまがあると共に、現在は台所等の水回りや壁、天井、その他を含め、あちこちを洋風に改装することで使いやすく、住みやすくしている。バザーのときにはこの住居の一階を開放して喫茶・食事スペースにしている。住居建築や改装などにおける教会員の様々な気づかいに、この住居の代々の住人は感謝してきたのだと思う。
さて、本題にもどって夏ミカン。
高いところにある実をとるために、先にはさみ、手元に持ち手とひきがねのある長い棒状の道具を使う。
それでも届かない果実は、脚立に乗って大きい木ばさみで取る。
木のてっぺん近く、ちょうど中心部の真上になっている果実については、取りにくいこともあり、またもうしばらく木にならせておくとマーマレードにしたときに甘みがより強いものができるという意見もあり、このまましばらく置いておくことになった。夏ミカンを鳥は食べないので、鳥のために残しておくわけではない。下の写真は残された果実を下から撮影したもの。
みんな総出で収穫。
作業がどんどん進んでいく。
収穫を終えたのちに、部屋の中で待っていてくださった方と共に、温かいおぜんざい(=お汁粉)をいただいた。塩昆布を添えてくださった。
ご準備いただいた方々に感謝。
みんなで「あったかいね~」と言いながら、おぜんざいを、実に美味しくいただいた。
外は寒かった。晴れた日とはいえ。
部屋の中で、おぜんざいを準備していてくださる方、待っていてねぎらいの声をかけてくださる方がいるゆえに、外で作業する方たちは寒さの中でも元気が出せる。
京北教会において用意していただくおぜんざいは、いつも美味しい。
その理由の一つは、手作りのおもちがふうわりして、なおかつ、すっきりと口の中で切れてべたつかないからである。これなら、のどにも詰まらないので安心してみんなで食べることができる。
このおもちの作り方を教えていただいた。豆腐を使うことが要点。
白玉粉200グラムに、水を切った豆腐300グラム。この割合で、しっかり混ぜて、こねあがった後にちぎって直径3センチぐらいの円盤状に、おもちを作る。豆腐は「充填豆腐」を使うか、「きぬごし」をよく水切りして使う。混ぜるときに、豆腐から水分が出るので、水は加えなくてもよいが、豆腐によって出来具合が違うようなので、こねた具合をみながら加減して水を入れることもあるとのこと。皆様それぞれに作り方を心得ておられるので、ここに紹介したのはあくまで一例。おためしくださいませ。
とれた夏ミカンを入れた箱がずらりと並ぶ。
これから後、これらを皆様が手分けしてこれらをマーマレードにしてくださる。これからの手間を思うと、頭が下がる。
昨年は、今年よりも多く、400個ぐらいの夏ミカンが二本の木になっていた。気候の変動によるのか、毎年できる数が違う。
昨年の収穫時の写真を下に掲載。
今年は、果実の数は少し減ったが、収穫をしてくださる方々の人数は、昨年よりも多かった。ありがたい。
昨年も今年も、この収穫の日はよく晴れた。良かった。今日は収穫のあとにごくわずかだが粉雪が舞った。今年の冬は昨年よりも寒い。そんな冬の日々の中で、みんなで協力しあえる一日があることがうれしい。
夏ミカン収穫のことだけをいっているのでない。今日、日曜日の礼拝がまさにみんなによって力を合わせてできたことがうれしい。
今日の礼拝の聖書箇所は、詩編62編。
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、とりでの塔。」(2~3節a)
神様のことが、動くことも変わることもない「岩」と表現されている。
神は、何一つ変わらない。時代が移り変わっても。
岩のように動じない、沈黙の神に向き合って、わたしも沈黙する。
そのとき…
「わたしは、決して動揺しない。」(3節b)
このような祈りが、聖書にはある。
人は、自らの沈黙の中でこそ、神の沈黙の意味を知るのかもしれない。
それは、おそらく「岩」のようであるのだ。
おぜんざいをいただいた後、話していた教会員の方から、このブログの教会の写真が良いと言っていただいた。
そこで、11月末に撮影した写真だが、まだブログに載せていなかった写真をここに掲載。縦の同じ写真を秋に掲載しているので、今度は横のもの。
この秋の教会の写真を撮ったときから二ヶ月たった。今、わたしたちは寒い冬を迎えているが、この時期を迎える前に秋があり、そしていつか春がまた訪れることも知っている。
冬は、冬の時期にしかない。
だから、冬の間に冬の恵みをいただいておこう。
一日一日というものは、せかしてはいけないものなのだろう。
神のなされることの到来を待つ、という信仰においても。