今日の日曜日。寒い日。
毎日寒いので、わざわざ寒い寒いと言うことはないが、やはり寒い。
この寒さの中で、日曜日に礼拝のために教会に集う一人一人の方の、調子や具合といったものが気になる。しかし、それぞれが工夫して暖かくしておられる。笑顔を見るのがうれしい。
寒い日ではあるけれど、よく晴れたので、爽やか。
今日もきりっとして、教会は礼拝。
上の写真は、会堂玄関の上の壁に設置されている教会名表示の文字(1941年製作)。もともとは右から左の方向で配置されていたものを、時代の変化に合わせて教会の改装時に逆にしたとのこと。落ち着いた風格を感じる字体だと思える。
私たちの教会名はしばしば、「けいほく」教会と間違って読まれる。
本当は「きょうほく」教会。
かつて烏丸五条の近くにあった前身の「京南(きょうなん)教会」が1941年に下鴨に移転して「京北(きょうほく)教会」になった。
教会としての年月はすでに100年を越した。
そして今年の3月で、下鴨移転70周年を迎えることになる。
さて、今日の礼拝説教の聖書の箇所は、詩編42編。
「枯れた谷に、鹿が水を求めるように、
神よ、わたしの魂はあなたを求める。」(2節)
枯れた谷には泉も川もなく、そもそも水が無い。しかし、そのところに行って水を求めるほかない鹿のように、どうしようもなくわたしの魂が神を尋ね求めている。それは、神など本当にいないと思える現実の中で、神がいるはずがないところに行ってさえ、神を求めて探さざるをえないほどの、空虚感の中での人間の、ありのままの姿である。
「昼も夜も、わたしの糧(かて)は涙ばかり。
人は絶え間なくわたしに言う、
『おまえの神はどこにいる』と。」(4節)
おまえが信じている神は、本当はいないのだろう、いると言うなら、いったいどこにいるというのだ、というような、人の言葉に苦しめられている心の痛みが伝わってくる。この痛みは、神なき時代と言われる、わたしたちのこの現代の状況の痛みとしても読むことが出来る。
「わたしは魂を注ぎだし、想い起こす。
喜び歌い、感謝をささげる声の中を、
祭りに集う人の群れと共に進み、
神の家に入り、ひれふしたことを。」(5節)
これはかつての平和で楽しかった時代の、みんなでしていた神への礼拝の場面を想い起こしている言葉。神の家とは神殿、礼拝の建物のことをさす。みんなといっしょに道を歩いて、礼拝のための場所へと進んでいった。そして、そこで讃美歌を歌い、感謝の祈りをささげていた。そのようなときが過ぎさり、状況がまったく変わってしまって、かつての礼拝はもう記憶の中にしか無くなってしまった。そんな中で人はどう生きるのか。
魂を注ぎだすように、かつての記憶を想い起こして、もういちど神を尋ね求めよう。
「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えていく。」(8節)
そのとき、神の働きの大きさが波のように、小さなこの私をはるかに越えていってくださることを予感する。
「昼、主は命じて慈しみを私に送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。」(9節)
昼も夜も、神が共にいてくださる。そして、私には神への想いがある。
「なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ、うめくのか。
神を待ち望め。」(12節)
神のいない現実にうなだれている自分の魂に、自分が呼びかけている。
神を待ち望め、と。
詩編42編は深い苦悩の中からの祈り。楽しかった時代が過去となり、何もかもが根こそぎ変わってしまった時代の中で、自分自身の内面と対話しながら神に祈っている、そんな詩である。
42編の内容から教えられるのは、祈りについてのこと。祈るときには、神様とだけではなく、自分の内面の中であふれる悲しみや、うなだれざるをえない状況への失望など、自分自身の中の声とも対話しながら祈るものなのだということである。
揺らぐ心の中で、自分自身に向かって「神を待ち望め」と語りかけてみること。そうやって、自分で自分を励ますこと。そうした励ましも、神様への祈りの中で出てくる言葉の一つなのだと教えられた。
しかし、わたしたちは、どうやったらそのように祈ることができるのか?
神様からの光がさしたときだろうか。
小さなわたしたち、人間の上に。
京北教会の夕景。微妙な光の色と、木の陰が写る壁の色があいまって深みをかもしだす。屋根の十字架も雲を背景にして少し際だつ。
教会に光が射すときに、教会はその光景が変わる。
光は大切なもの。
「光あれ。」(創世記1章3節)
晴れの日には、晴れの光。
雪の日には、雪の上の光。
雨の日には、雨のさえぎりの背後の淡い光。
夜にはかすかな天の光。
光のない世はない。
人の歩む道には光がある。
虹もかかる。
寒い日には、ありったけの光を気持ちの中に集めてみよう。
祈りの中で。
そうすれば、きっとまた礼拝できる。
渇きの中にある鹿が渓谷で水を飲むように。