──同志社教会を訪れて──
2011年 1月1日(土)
元旦、京都南部地区の新年合同礼拝
(ファウラー・チャペル、ファウラー講堂)で行われました。
上の写真は、栄光館の全景。
毎週の礼拝を行う礼拝堂でもあります。
雪が降った栄光館の姿。
(参考)毎年の「新年合同讃美礼拝」報告は以下です。
(アドレスを画面上でクリックすると開きます)
★その他に、各地の様々な教会などを訪れた記録の、
「あちこち訪問記」があります。
下記アドレスをクリックするとご覧いただけます。
「あちこち訪問記」
栄光館は同志社大・女子大などの「講堂」として、
学校行事に多目的に用いられています。
この日の栄光館の壇上には、礼拝用の配置がなされていました。
栄光館の座席数は、一階が1000席、二階が600席と聞きました。
パイプオルガン。素晴らしい音色と響き。
この栄光館は、毎週日曜日には、
創立130年を越えた「同志社教会」の、
日曜日の礼拝に毎週用いられています。
だいたい80人台だったと記憶しています。
同志社教会は学校の創立以来の伝統を持っていると共に、
専用の礼拝堂を持たない教会です。
通常はこの栄光館で礼拝を行うので、毎週日曜日の朝に、
看板や礼拝の受付用具や、大きな週報棚や、
備え付けの聖書・讃美歌など一式を、
館内にある収納場所から出してきて、
同志社教会のみんなで協力して、配置場所に並べます。
そして、礼拝が終わるとまたみんなで協力して、しまいます。
しかし、学校の行事などが日曜日にあると、栄光館が使えません。
そんなときが年に何回もあり、そのときには、
栄光館とは別に、学校側の措置として使わせていただく、
校内の別の場所まで、教会としての週報棚などたくさんの必要品を、
手押し車に載せてその場所へ運び、並べます。
そして、礼拝が終わると、また運んで収納場所に収めます。
以上のことは、とても大変なことです。
けれども、教会員の皆さんが率先して働き、
信徒・教職・神学生らが協力しあって、
それらの大変な作業を、
毎週日曜日にこなしていた様子を記憶しています。
そして、そこに喜びがあったことも、いま、思い出しています。
栄光館(エルドリッジ・ファウラー・チャペル、ファウラー講堂)は、
また、同志社大学の卒業式や講演会などにも用いられています。
実に大勢の人たちが、このチャペルで礼拝をしてきました。
さきほどの館内の写真は、元旦の礼拝のずっと前の時刻に写しました。
だから、人があまり写っていません。
このあと、どんどん人が入ってきました。
京都南部地区の「新年合同讃美礼拝」は、
昨年は235名の出席でした。
今年はどれぐらいの人が出席したのか、聞き忘れました。
今回は、元旦が土曜日であることと、
出席者はかなり少ないのでは? と予想していましたが、
思ったよりも、ずっとたくさんの方が来られました。
あちこちの教会・伝道所から、寒いなか、多くの方が来られました。
礼拝が始まると、皆さんが歌う讃美歌の声が大きくあがりました。
元旦に明るい声が大きなチャペルに響くと、それだけでうれしくなります。
上は、栄光館の中に置かれている聖書朗読のための木製の台。
とても年季の入っています。いつから使われているのでしょうか?
下部には、「我即途也」「我即真也」「我即命也」と彫られています。
「私は道であり、真理であり、命である」の漢文表記でしょう。
このような表記を、ここで初めて見た人も多いのではないかな。
この、日本(東アジアの漢字文化圏)の伝統に則した、
漢文表記による聖書の言葉を見たときに、
キリストの福音(良き知らせ)が、
日本の地に根を降ろし始めた時代の、
凛とした「作風」を感じました。
キリスト教のあるべき姿とは、
欧米の文化・雰囲気にかぶれることではなく、
聖書と教会の、信仰の恵みに出会った人が、
それを、すでに自分の知っている最も良いもの・大切なものを通じて、
心からの表現をし、それを多くの人と共有していく姿、
そういうことではないか、と思わせてくれました。
時代と地域と文化を越えた信仰があります。
その信仰を伝える、礼拝がここにあります。
学問の場、教育の場である学校と共に。
そう信じたいと思いました。
構内にて。大雪のつもった中に美しく咲く花。
元旦に、多くの人々と共に礼拝することができて、
うれしかったです。
(礼拝の開始前に構内で撮影した写真を、このブログに掲載させていただきました。
新年合同讃美礼拝の主催者である日本キリスト教団京都南部地区、
この礼拝に会場を提供してくださった同志社女子大学、
元旦の朝からの会場準備ほか、様々にご尽力いただいた同志社教会など、
この礼拝の関係者の皆様に感謝いたします)
元旦の礼拝からの帰り道に車の中から撮影。
大文字に雪がつもって、白い大文字になっている。
珍しい光景かも?
(このブログのこの箇所で、当初「大文字焼き」という表記をしていましたが、
その表記は、極めて表面的な表現なので、京都の住人からは好まれておらず、
その行事にこめられた信仰的な意味を正確に表すには、「大文字五山送り火」、
または単に形をいうならば「大文字」と表記することが適切ではないか、
との懇切丁寧な、心のこもったご指摘をブログ読者から直接いただきました。
ありがとうございました。そのようにさせていただきました)
帰ってくると、教会の庭に、住居の窓を通してつもった雪が見え、
そして庭の夏蜜柑の橙色や、紅い花の色が、雪の中に輝いていました。
寒い日の光景も、部屋の中から見ると、違った印象で見ることができます。 白い雪の中にほんのり浮かぶ橙や紅の色に、暖かさを感じて。
寒い冬の中でも、自然が私たちに与えてくれるぬくもりに気づきました。
雪のあとの京北教会。
元旦の礼拝を終えて、ここに帰ってきました。
ここがわたしたちのところ。
暖かいところ。