京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

(2010)今日からアドベント(待降節)─クリスマスを待つ4週間の始まり

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 今日から、教会の暦は「待降節(たいこうせつ)」に入る。
 この時期を「アドベント」と言う。

 クリスマス、12月25日までの4週間、4回の日曜日をはさんで、イエス・キリストの誕生を待つ気持ちで過ごすときである。

(日本の教会の習慣では、その4回目の日曜日にクリスマス礼拝を行う。今年は12月19日がその日である)

 京北教会では、昨日の土曜日に、役員と有志で教会にアドベントの飾り付けをした。伝統では、クリスマスを過ぎた1月6日(公現日)までの間、約一ヶ月にわたりこの飾り付けをしておき、イエスの誕生を待つ喜びと共に、迎えた喜びをも表し続ける慣わしである。

 年末年始のどこまでアドベントからの飾りをそのままに置いておくかは教会によってそれぞれだが、それがどうであれ、アドベントからの飾りは「クリスマスの時だけのため」の飾りではなく、「クリスマスを待つ気持ちと、迎えた気持ちの、両方の喜びを表すため」の飾りであることに違いはない。

 教会員の手作りで、いろいろと用意された飾り付け。デパートのような派手な飾り付けは出来ないが、それでいいのである。

 松かさや、針葉樹の葉などでリース(輪)の飾りを作る。

 自然の樹木などからの素材を使って、手作りの範囲で飾り付けをする。

 京北教会のクリスマスは、そんな自然なクリスマス。

 あっと驚くような、誰にもできないような、大がかりな飾り付けは無い。

 手の届く近さにあるクリスマスである。

(京北教会では、12月19日(日)の午前10時30分~11時45分に礼拝、その後に手作りのお祝い会を持ちます。また、12月24日(金)夜7時~8時に、礼拝堂でローソクをともしてのクリスマス・イヴ燭火礼拝を持ちます。どうぞご出席ください。事前連絡は特にいりません)

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 ここ最近、日曜日の礼拝に、初めて教会の礼拝にこられる方や、久しぶりに遠方から来られる方などが続いている気がする。

 うれしい。

 私たちの教会は、いつも待っている教会である。
 誰もが、「神様に見守られるために」教会に帰ってくることを、待ち続けている教会である。

 待っている方が来られたときは、とてもうれしい。

 イエス・キリストが生まれた、ということも、それは、私たちが待っている方のお生まれであった。

 ─そう、聖書は、伝えている─

 だから、うれしい。

 そうして、神様の暖かな手がわたしたちのところに(イエス・キリストという形で)届いたことを喜ぶがゆえに、私たちは、クリスマスの喜びを、誰にとっても身近に感じられるものとして、届けたいのである。

 教会の働きを通じて。毎週の礼拝を通じて。様々な出会いを通じて。

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 京北教会の玄関にある受付の様子。

 今日から、受付も、アドベントの飾り付けがなされている。
 手製の敷物の精緻さが、写真ではわかりにくいかと思う。
 紅いリボンのついた金色の鐘が鳴っている絵柄。

 初めて来られる方にも、この受付で、クリスマスに向けて歓迎の用意をしている私たちの教会の祈りを伝えたいのである。

 暖かな気持ちで。

 教会玄関の扉を開けたところに、ふきさらしのように外に面している、この場所に毎週、順番で交代しながら、受付のために座ってくださる方々がおられる。

 暖かな気持ちで。


 それを思うと、皆様に頭が下がる思いになる。感謝。

 そして、玄関を入っていただいた正面には、このリース。
 

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 さて、クリスマスと言えば、それは聖書の中に書き記されている物語なのだが、その始まりは、どんなふうに書き始められているのだろうか。

「わたしたたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が私たちに伝えた通りに、物語を書き連ねようと、多くの人々がすでに手を着けています。そこで、…」
                 (ルカによる福音書 1章1節─2節)

 これは、ルカ福音書の一番最初の書き出しである。
 イエス誕生に関わる事柄は、聖書では、ルカによる福音書の1~2章、そしてマタイによる福音書1~2章に基づいている。マルコ、ヨハネの二つの福音書にはイエス誕生についての物語は記されていない。

 量から言えば、ルカ福音書の記述が、クリスマスについて、もっとも豊かな資料を提供してくれていると言えそうだ。

 そのルカ福音書の冒頭にある、この書き出しの中で「物語」という言葉が使われていることに、はっとする。

 聖書を読むときには、そこに記されている内容は様々なものがある。
 中には、人間の空想や願望と強く結びついた伝承(言い伝え)という要素もあるように思えるし、また、歴史の事実を書き残しておくという厳格な姿勢もあるように思える。

 私たちはどうしても、それらを渾然一体の形で読んでしまうので、そこから自分が読み取るべきものが、何なのだかわからなくなることが多々あっておかしくない。つくりごとが入り交じっているかのようにも思えるだろう。

 けれども、「物語」という言葉には、そうしたあれこれの記述や、あれこれの私たちの気持ち(つまづき、疑問、憧れ、興味、共感等々)を全部包み込んでくれる暖かさがある。

 神様を信じるということは…現在進行中の「物語」ということで、いいのではないだろうか。私たち一人一人が経験しながら、その意味がたえず変わっていきながら続いていく「物語」として。

 ルカによる福音書を書いたとされる「ルカ」さんだって、その物語の中にいたはずだ。物語の渦中にいるから、物語が書けたのではないだろうか。

 そして、今の時代にあっても…。
 人の数だけある、無数の「物語」を持って、私たちは教会に集っている。

 そこに満天の星が輝き、天使にも負けないキャロルの歌声が響く。

 クリスマスはそんなときである。
 
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 先日、礼拝堂のオルガンの調整と調律を業者に依頼して行った。
 そのおりに中をあけた様子の写真を撮った。なにやらいろいろな仕組みがある。あけてもっと中を見ないとわからない仕組みであるが、見たところで何がどう動くのだか、やはりわからないだろう。

 けれどもオルガンのこの内部構造には、何世紀にも渡って積み重ねられてきた職人の気持ちが反映していることはわかる。今までに、ずっと長い時間をかけて、今日まで準備されてきた知恵と工夫がこめられている。その準備があってこその、毎週の、この美しい音色。

 ふだんの日曜日の礼拝での讃美歌の伴奏になくてはならない、そしてクリスマスの時期には特に聴きたくなる、あの美しいオルガンの音色。

 その中の、たった一つの音が、この世に出てくるためにも、無数の人たちの物語がその背景にあったはずだ。

 クリスマスに向けて準備してきたのは、現在教会につらなっている私たちだけではない。

 無数の人間の物語を、言葉で、また、ときには無言の働きを通して、受け継いできた、はるか昔からの様々な先達を含めた、ひとつの民(たみ)として、私たちはクリスマスを準備しているのである
 
 わたしたちは、自分が何者であったとしても、クリスマスの民になれる。

 民は、一人ではない。

 祈りの中で、みんなでクリスマスの民となろう。

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 いそぎ来たれ 主にある民
 み子の生まれし ベツレヘム
 歌え、祝え、天使らと共に
 
 (「讃美歌21」259番 1番歌詞から抜粋)