礼拝堂には、四人がけのこの長イスが15脚。
イスに合わせた柔らかいクッションを手製で用意してくださっているので、心地よく、気持ちよく腰掛けることができる。
今日は、教会の暦で「収穫感謝日」として礼拝した。教会では、秋の深まるこの日に、自然の恵みである様々な作物の収穫を含めて、神様からの恵みに感謝する日として日曜日の礼拝を行う。
(このほかにも、身体の事情などでこのイスに座りにくい方には、柔らかいソファに座れる席も礼拝堂に接した別室に用意している)
もうひとつ、京北教会では年間行事の流れの関係で、この日に「神学校日」を重ねてスケジュールを設定した。だから、今日は「収穫感謝日・神学校日」である。そうして、神学生に礼拝説教をお願いした。
収穫感謝にふさわしい内容の説教をしていただいたことに感謝である。
礼拝後の昼食として、秋の実りを象徴する野菜類をたっぷり入れて、よく煮込まれたシチュー、そしてケーキを作り、柿をむいてくださった。
教会の方々が作ってくださった、秋の収穫感謝のお昼ご飯。
よくよく味わっていただいた。おいしい秋が口の中に広がった。
うれしい秋、おいしい秋。感謝してみんなでいただいた。
礼拝が終わったあとの食事は、準備してくださる方の労力を考えつつ、いつも感謝していただく。
食事前のお祈りには、「準備してくださった方に、神様からの豊かなねぎらいがありますように」というような言葉が入ることが多い。
収穫には、必ずそこに、労する人の隠れた行いがある。
ふと、そのことに思いがけなく気づくときがある場所、教会。
収穫感謝ということは、実は教会の日常そのもの、でもある。
礼拝後の昼食のあとに、今日のテーマの収穫感謝ということに重ねて、それぞれに違ったお話を二人の方から聴かせていただいた。
京北教会に深い関わりのある本の出版に携わった方。
学校や普段出席している教会での活動を語ってくれた神学生。
お二人から良い話を聴かせていただいた。感謝。
会の終わったあとには、有志で病院にお見舞いに行った。
いろいろなことを短い一日の中で体験し、一つ一つに収穫を見た。
教会の「収穫感謝」は、今日の日でもあり、毎日のことでもある。
その中で、私たちは、自分たち一人ひとりが、神様から愛されて(育てられて)良い実りとされていることに、気がつけるかもしれない。
人の目から見られて、あるいは自分で自分を見て、「良い実りだ」と満足するのではなくて、この私がなぜか、自分では考えられないが、神様の手の中に豊かに収穫され、神によって神の働きのために用いられているという、ありえないことに、ふと気がつけるかもしれない。
聖書の言葉によって。
今日の礼拝説教は、神様からいただく恵みを、皆でわかちあうことが「収穫感謝」であり、そのためには「信頼」ということを必要としている、という話だった。
そして、その道を神様に導かれて「追求」することに教会の道がある…。
そんな結論だった。
説教を担当してもらった今日の神学生は、昨年度一年間、京北教会で教会実習をした方である。
今日のブログの写真で、最初の長椅子と、上の開けた讃美歌の、二枚の写真は、京北教会創立100年記念文集に用いる写真として、昨年度の実習期間中に、神学生が撮ってくれた写真を使わせていただくことにしたものである。
一年間のお働きと、今日のお働きに、追憶と感謝をこめて。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
(マタイによる福音書 9章37、38節)
働き手は、誰かに祈られて、働き手になるのだろう。
教会の、一人ひとりが、そうであれますように。