今日、京北教会では、用意していだいた手作りお菓子とお茶をいただきながら、礼拝後に「お茶と祈りのとき」をもった。
お茶を飲みながら、各自それぞれに、ほんわか、ふんわり、した教会の礼拝後の雰囲気の中で、自由な雑談や一人でお茶を飲む時間を過ごす。
そのあとに、牧師から、今後の教会の諸行事や、役員会で話し合ったことのお知らせ、また関係者の個人消息(入院、退院、お見舞い等)などについての短い報告を聞き、それらを今後の祈りの課題として、三人ほどの有志の方に短く祈っていただいた。
今日の報告は、秋の行事からクリスマスの行事、果ては新年の行事まで、そして、さらにお見舞い関係など、報告事項が多かった。しかし、ひとつひとつのことに皆様が心の耳をすませて聞き入ってくださり、その後の、ごく短いお祈りのときは暖かな気持ちだった。
ふだん、私たちの教会では、日曜日の朝、礼拝堂の後部にある机の上に、祈りのカード(ハガキ)を置いて、そこに皆さん一人一人のサインをしていただく。
ハガキの宛先は、その週に誕生日を迎える方、入院されている方、遠方でなかなか礼拝に来られない方等、いろいろな方々である。
一人一人に応じてカードを出す、その理由は様々に違っている。
しかし、どのカードにも、「教会の祈り」がこめられている。
最近、教会では、その祈りのカードハガキを、担当の方がカラープリンターを使って手作りしてくださるようになった。ありがたい。
カードにプリントした写真は、教会の庭に咲いた花である。
カードを受け取った方が、教会に咲いた花の写真を通して、何を思われるだろうか。
花を見ることで、あたかも天からの素敵な「香り」を受け取るように思ってくだされば…。
そう願う。
祈りとは、何だろうか。
イエス・キリストの言葉を思い出す。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
(マタイによる福音書 6章8節)
祈る前から、神様は、私たちの全ての必要をご存じなのである。
そうであれば、私たちは誰も、祈らなくてもいいはずである。
それでも私たちが、祈るとしたら、何を祈るのだろう。
何を祈ってもいいのである。
先に、天の神様が、私たちの全ての必要をご存じなのだから、私たちは、「全ての必要」について神にゆだねて──つまり、あらゆる束縛から解放されて──自由に祈れば良いのである。
そういう意味で、祈りとは、自由を味わう経験である。
祈りは、心が真実な意味で自由であることの、自然な表れ。
神様が私たちに、「自由に祈る」ことをゆるしてくださっている。
だからこそ、存分にその自由を味わって、神様に祈るという恵みにあずからせていただくことが、ゆるされているのだ。
誰にでも。
とはいえ、人間は、祈らなくては生きていけない存在ではない。
それはわかりきったこと。神を知らずとも、人は生きる。
生きざるを得ないから生きているだけだ、とも言えるだろう。
それでも、もし祈るとしたら、何を祈りますか…?
「祈らなくてもいいような、平和な世界をください」。
「祈らなくてもいいような、幸せな生活をください」。
そんなふうに祈ってみようか。
それでもいいと思う。
けれども、本当にそんな祈りを、まじめにする人がいるだろうか。
祈るときには、なんとか言って欲しいのだ。神様に。
その答えが、自動販売機の品物のように、出てくるわけではない。
でも、いつか、答えはかえってくる。
自分が何を祈ったかすら、すぐに忘れてしまう、自分勝手な私たちの、どうしようもない小ささを、はるかに越えた方から。
京北教会の礼拝堂の、講壇、聖餐卓、オルガン、講壇の生け花の光景。
祈る人を励ましてくれる光景に思える。