京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

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2022年9月の説教

 2022年9月の説教
   9月4日(日) 9月11日(日) 9月18日(日)   9月25日(日)

「地の塩・世の光」 
    2022年9月4日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書 マタイによる福音書 5章 13〜16節(新共同訳)

 

 あなたがたは地の塩である。

 だが、塩に塩気がなくなれば、

 その塩は何によって塩味が付けられよう。

 もはや、何の役にも立たず、

 外に投げ捨てられ、

 人々に踏みつけられるだけである。

 

 あなたがたは世の光である。

 山の上にある町は、隠れることができない。

 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。

 燭台の上に置く。

 そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

 

 そのように、

 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

 人々が、あなたがたの立派な行いを見て、

 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。




  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
      新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 長い夏がようやく終わって、9月に入りました。暦では秋になりましたが、まだ夏の残暑というような暑さがこれからも続くのではないかと思われます。長い夏の間、皆さんそれぞれにご自分の健康、ご家族の健康のことを気遣い、いろんな工夫をしてこられたのではないかと思います。

 

 そして、そんな夏の時期がやっと終わって、ちょっと涼しい風が吹いてきた、というときに、「ああ、気候の変化が起きている」「ときが経ったのだ」ということに私たちは気がつきます。教会においても、ずっと同じようなことをしているわけではなく、その時その時、神様が下さったときというものがあり、同じようなことをしているなかであっても、少しずつ私たちの一人ひとりの生活には違うものが現れています。

 

 教会の礼拝というものも、そのようにして、ずっと同じようなことをしているようであって、その礼拝の中にこめられている、一人ひとりの祈りとか願いというものは、その時その時によって違っているのだろうと思います。

 

 今日は礼拝で読む聖書の箇所として、「地の塩・世の光」という小見出しが新共同訳聖書で付けられている箇所を選びました。夏が終わって秋に入る、気持ちを切り替えて私たちの教会もまた、新しく歩み出していく、そのときにあたって、この御言葉から始めていきたいと考えたのであります。

 

 今日の箇所には、地の塩・世の光、この二つの言葉が記されています。この二つを通して、イエス様は私たちに何を教えておられるのでありましょうか。

 13節に、こうあります。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」このように言われています。

 

 ここで言われている「塩」というものが何であるかというと、言うまでもなく、料理に使う塩ありますが、この聖書箇所の文脈でいえば、単なる調味料の塩ということではなくて、清めるもの、あるいは栄養を与えるもの、力を与えるもの、目に見えないほど小さなものであるけれども、それがなくては土が土として働くことのない、そういった力、そういうものを示す言葉として「塩」という単語が使われています。

 

 料理に塩というものを使うときに、それは保存食に使うことができます。殺菌する効果があり、食べ物が長持ちする。人々は経験的にそのことを知っていました。塩というものがなければ人間はの生活は成り立たない。それは科学的にもそうなのでありますけれども、人々はむしろ経験的にそのことを知っていました。

 

 そして、そのような塩というものが土にあって栄養を与え、土を清めている、植物の悪い病気を追い払っている、そういう考え方は古代のものであり、現代的ではないかもしれませんが、塩というのはそれぐらいに大事なものなのだ、目に見えないけれども、それが大事なんだ、そういうものが塩という言葉で表現されています。

 

 では、その塩というものに塩気がなくなれば、その塩は誰によって塩味が付けられようか、とイエス様は仰っています。塩が塩気がなくなる、ということがあるのでしょうか。わかりませんけれども、塩としての役割を果たさなくなった塩、塩に見えているけれども塩でないもの、ということが言われているようです。

 

 塩に塩気がなくなったら、一体何によって味が付けられようか、と言われます。そんなことは私たちは普段考えてもいないと思います。塩に塩気がなくなったら、じゃあ、その塩に塩を振って塩味を付けるのだろうかとも考えますが、そんなことをしたら塩がもったいない気がします。役に立たなくなたったら、そんなものは捨ててしまう。外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけであります。そのように言われています。

 

 13節の最初には「あなたがたは地の塩である」と言われています。この地にあって必要な塩、あなたがたはそうなんだ。その塩の塩気がなくなったら、その塩の塩らしさ、塩としての働きがなくなってしまったら、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけであると、イエス様は言われました。

 このときイエス様は、この5章の中では、群衆を見て山に登られ、そして弟子たちが近くに寄ってきた、という状態の中で語っておられます。すなわち、今日の箇所の言葉は、イエス様からまず弟子たちに向けて語られた言葉であり、さらに今度は弟子たちを通してたくさんの群衆に語られる言葉として、語られています。

 

 ここで言われている「あなたがた」というのは、イエス様の言葉を聞く人たちのことです。イエス様の言葉を聞く人たちは、地の塩なのです。その地の塩は、決してその塩気をなくしてはいけない、とイエス様は仰います。

 

 そして続いて14節でこう言われます。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」

 

 ともしびというものは、わざわざ隠すために明かりをつけるものではなく、燭台の上に置いて家の中の全体を照らすものであります。誰でも知っている常識をここで語り、そして15節にこうあります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」このように今日の聖書箇所は締めくくられいます。

 

 この箇所を読んで、皆様はどう思われるでしょうか。「地の塩・世の光」というのは非常に含蓄がある言葉、含みと言いますか、この言葉にこめられたイエス様の気持ち、あるいは神様からのメッセージというものがこの言葉に凝縮されていて、私たちは何となく、「ああ、この言葉は大事なんだな」ということを感じ取ります。

 

 それと同時に、最後の言葉を読んで私たちの心はちょっと引くのではないでしょうか。それは、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という、この言葉が私たちをつまづかせるのではないかと思います。つまり、地の塩・世の光として生きるということに、イエス様が言われたように生きるということは、その言葉を聞いた私たちが何か立派な行いをしなきゃいけないのだと、その立派な行いというものを見た人々が、あなたがたの天の父をあがめるようになると。

 

 そのようなことを言われると私たちは、「そんな立派なことはできません」と言いたくなります。私たちが何かの行動をして、それが何になるのでしょうか。人が驚くような立派なことをすれぱ、なるほど、クリスチャンというのは素晴らしい人なんだ、じゃあ、私も神様を信じようと言って、神様をあがめるようになるのだろうか。どうしたら、そんなことができるのだろうか。私たちは想像もつきません。乏しい想像力で無理矢理に考えてみたら、どうなるのでしょう。

 

 確か、インドでマザー・テレサという人が貧しい人、困っている人をたくさん助けたらしい。私もあんなことをしたら、世界中の人から素晴らしいと言ってくれるのだろうか。でも私には、そんなマザー・テレサのようなことはできない、という、そんなことを考えてしまうかもしれません。いや、そんな立派な人、まあマザー・テレサまで行かなくても、自分の身の回りの所でちょっと頑張ってみようと思って、何かをする。そうしたことなら、できるかもしれません。

 

 けれども、そうした考え方というのは、中々しんどいことがあります。というのは、この私、自分がすることに対して、人々がそれを立派な行いだと言ってくれるようなこと、それを見て人々が「ああ、私も神様を信じよう」と思ってくれるような行動を、この自分がしなければならない、と考えたときに、ちょっと自分の心が苦しくなってくるのです。

 

 私たちは、人が見て感心するようなこと、良いことをすることに抵抗があると思います。照れるということがありますし、何か良いかっこしいをしている偽善者のような気持ちになることもあります。どこか心が疲れてしまう。そして、そんなことは私はできません、というふうにも言いたくもなるのです。

 

 なぜそんなふうに言いたくなるのか、ということを考えると、これは一人ひとりそれぞれにあると思いますけれど、たとえば私自身がなぜそう思うかということを考えてみたのですね。何か立派な行いをして、神様があがめられるようにしましょう、というようなことをするとしたら、私としう人間自身が世の中で浮いてしまうのではないかな、という気持ちがするのです。

 

 何か一人で良いことをしましょう、と考えて、町に落ちているゴミを拾いましょうか。私が思いつくのはその程度のことなのですけれども、その程度のことでさえ「いつも、そうしよう」と思っていると、なんか段々しんどくなってきます。結局、何か良いことをしようと思っている人間という、その自分というものが疲れてしまっている。何か、いやになってしまう。

 パッと世の中を見渡してみると、別に世の中の人は、そんなに良いことをしようと思って、肩に力を入れて頑張っているのではなくて、もうちょっと違う所で何か頑張っておられますね。社会福祉を一生懸命にされている方、社会の中にあって虐げられている人のために、あるいは社会の矛盾を解決するために、世界に平和のために、何かどこかで頑張っておられる、そうした活動を見るときに、その方たちは、「何か良いことをしよう」と思っているのではなくて、もっと違った動機でされておられるように思うのです。

 

 やむにやまれぬ気持ちであったり、あるいは、自分の持っている能力を十分に活かしたい、そういう気持ちでボランティアされることもあるのですね。また、自分が何か良いことをしようという、道徳的な気持ちではなくて、みんながもっと協力したら、もっと楽しいことができるんだよ、その可能性を追求したい、そんなふうな言葉が出てくるのではないでしょうか。

 

 そんなふうに、社会の様子をずっと見ていくと、何か自分が良いことをしなければ、そのことによって神様があがめられるようにしなけりゃ、という考え方は、段々としんどい考え方になってきます。自分で自分を追い詰める考え方のような気がしてきます。

 

 そう考えていくと、この16節の言葉は、なかなか、何と言ったら良いのか。良い言葉かもしれないけれど、自分にとってピンとこないような言葉になっているのではないかと思います。そんなわけで、聖書の言葉を聞くということは難しいなあ、これはいつも思うことなのですが、それを今日の聖書箇所についても思います。

 

 話は変わりますが、私は先週一週間、お休みをいただきました。大変貴重な夏期休暇をいただいて感謝しています。今はコロナ問題に関する社会の状況がありますから、旅行に行くというわけでもなく、まあ近場でウロウロするような、それども私にとっては楽しい時間でありましが、そんな一週間を過ごしました。

 その中で、日曜日にお休みをいただいて、どうしたかと言いますと、日曜日にどこかの教会の礼拝に行く、それはコロナ問題が起こる前までは、私は休暇のとき、大抵のときはそのようにしていたのであります。どこの教会の礼拝に行こうかと考えるのが楽しみでありました。しかし今はコロナの情勢の中にあっては、ふだんその教会の礼拝に来ていない人が、突然に礼拝にやってくるということは、感染リスクを増やすことですから歓迎されないかもしれないなあ、そんなふうにもおもいました。

 

 そんな中で結局私がどうしたかというと、携帯電話でスマートフォンを使って、ある教会が礼拝のインターネットの配信をしているのを聞くということにしました。実は、私は前に休暇をとったときも同じようにインターネットの礼拝をしたのですけれど、そのときには、喫茶店に行ってイヤホンを持って行って、携帯電話にイヤホンをつないでライブ配信の礼拝を聞くということをしていたのですけれども、今回はですね、イヤホンを持って出るということを私は忘れてしまっていたのです。

 すると、どうしたらいいかなあと思って、結局考えたのは、鴨川のほとりに行って、そこで携帯電話の音を外に出しながら、ある教会の礼拝の配信を聞くということにしました。近くの教会の礼拝がいいかなあと思って、京都丸太町教会の礼拝の配信を聞きました。司会から始まって、讃美歌、聖書朗読、説教などすべてが美しい録音で、よく準備されたものでした。ライブ配信ではなくて事前に礼拝を録音・録画したものを礼拝の時間に流すということをされていました。

 

 鴨川のほとりに座って、その携帯電話の音を聞いて、最初は1番大きな音量にして讃美歌を聴いていたのですけれど、まわりに通る人がいるので、これが迷惑になってはいけないなあと思って、音を半分ぐらいにして途中から聞いていました。30分ほどそうして野外でインターネットで礼拝するという、初めての経験でしたが、そのようなことをしました。

 

 コロナ問題がなければ、こんなことをすることは考えもつかなかったし、実際にすることもなかったと思うのですけれど、今の時代にこんな形でも礼拝を守ることがいいのかなあ、と私なりに思った次第であります。

 

 私がいま、なぜこのような、ちょっと変わった礼拝の経験をしたということを話しているかと言いますと、今日のこの聖書箇所、「地の塩・世の光」というイエス様の言葉を聖書から教えられるときに、私たちは地の塩であり、世の光であるということを、そう言われても、私たちはそんなことはできません、人からほめてもらえるようなことはできません、と16節の後半を読むときに、私はいつも思ってしまうのですが、イエス様がここで言われていることというのは、そんなふうな、何か素晴らしいことをしなさい、ということではないのではないか、ということなのです。

 

 私が思いますのは、「地の塩・世の光」、それはどういう姿であるかというと、それは、今日の皆さんがここに椅子に座っているように、教会に行って礼拝をするということ、その姿が「地の塩・世の光」ではないか、と私は考えているのであります。

 それは人から見て、「ああ、立派ですね」と言われることではないかもしれません。何か社会福祉をやったり、国際的な平和を作り出したり、そうした、何か人が驚いてくれることではないかもしれません。けれども、私たち一人ひとりが毎週日曜日に礼拝をしている、その後ろ姿というものが、「地の塩・世の光」であると思うのです。

 

 皆さんがいま座っている、その後ろ姿は、何も語っていませんが、しかし、ここに神の言葉を聞く人間がいる、ということを世の中に示していることにおいて、「地の塩・世の光」なのであります。そしてそれは、この礼拝堂の中でただ礼拝していますというだけではなくて、私たちの教会は毎週、ここで礼拝をしています、誰でもどうぞいらしてください、教会の門を開いていつもお待ちしています、そのことをこの世の中にあって明らかにして、いつもみんなで人を待っている、そして自ら率先して礼拝を守っている、その姿こそが「地の塩・世の光」なのであると思います。

 

  私が鴨川のほとりで一人でインターネットで礼拝していても、はたから見ていて、その姿は何をしている姿かわからないと思います。それはやむをえずそんなことをしている姿なのであります。けれども、そんな姿もまた、礼拝の姿であり、神様は見てくださっていると思います。そんな仕方であっても、礼拝することを隠さない生活をしているならば、またいつか、コロナ禍が終わったときには、みんなで礼拝することができる。そこに希望をかけて礼拝し続ける人の姿は、「地の塩・世の光」なのであります。

 

 そのことをやめてしまうならば、まさにそれは、塩に塩気がなくなった自分たちであり、その塩は何によって塩味が付けられよう、というのであります。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである、と。それはどんな姿なのでありましょうか。
 

 礼拝することがしんどくなってしまった。礼拝することがおもしろくなくなってしまった。礼拝することに疑問を感じるようになってしまった。あるいは、もう忙しくて礼拝することができない。そういうものも、人間の本音としては一方であります。また、イエス・キリストの福音を知らない、聞いたこともない、そんなことはわからない、そういう方々にとっては礼拝ということの意味は、伝わっていないでありましょう。

 

 けれどもイエス様は、ここで「あなたがたは地の塩である」というときに、その「あなたがた」というのは、イエス様の言葉を聞こうとしている人たちであります。イエス様の言葉を聞こうとしている人たちは、世にあって「地の塩」です。目に見えないような小さな粒であるけれども、それが世の中にあるかないかで、世の中というものの質が変わってくるのです。そのことを私たちは信じたいと思います。

 

 そして14節からこう言われます。「あなたたちは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」それは、礼拝をしている教会は、自らの身を隠すことができないという意味であります。秘密結社のように扉を閉じて、そっとどこかで礼拝している、それはもちろん、政治的な抑圧があったり迫害があれば、そのようなこともあるのですけれど、そうしたことがないときにあっては、教会は礼拝というものをいつも公にしています。教会にあって、隠すことのできない光、灯し火を灯しているのであります。

 

 その光、灯し火というのは、私たち自身が人間として輝いている、そういう意味で輝くのではなくて、神様からやってきた光、神様から与えられてきた灯し火、というものが教会の光なのだろうと思います。わたしたち一人ひとりの人間は、自らがロウソクの灯心のように燃えて輝くのではなく、神様から与えられた灯し火の光によって照らされて、明るくなるのです。

 

 光によって照らされて生きることができる。その生き方というものを表すのが、私たち一人ひとりであります。それは決して、自分自身がロウソクの灯心のように熱く燃えて、どこに行っても私がいればまわりが明るくなる、そういう自信満々な人間ということではなくて、どこに行っても神様が照らして下さるから、私は生きていくことができます、そうした謙虚な生き方であると思うのです。

 

 地の塩、それは目に見えないものであります。そして、世の光、それは自らが燃えさかるのではなく、神様から与えられた光を大事にして、その灯し火をますの下ではなく、燭台の上に置く、そのようにして光を仕えて、光を人々に分け与える、その光が何かを何かを指し示すということであります。

 

 どうやったらそれができるか、というと、それは礼拝をするということなのであります。教会においての礼拝がまさにそうでありますし、教会でなくても、一人ひとりがそれぞれの場で行う礼拝のすべてが、「地の塩・世の光」なのであります。

 

 わたしたちはこの秋、これから始まる、今までより少しずつ涼しくなっていく気候の中で、それぞれの生き方をしていきたいと思います。そして、一人ひとりが「地の塩・世の光」と、神様によってさせていただけるのです。

 

 そうであるのですから、私たちは何も自分自身がどれほど良いことをしているか、ということを心配したり気を遣ったりするのではなくて、自分のしたいことをしたら、良いと思うのです。神様によって「地の塩・世の光」とされていく私たちは、必ず、そうされていく、神様を礼拝することによって、必ず、力が与えられていくのです。そうであるならば、いかに私たちが立派なことをするか、ということに気を遣ってしんどくなったり、つらくなったりする、「もういいです」と言ったりすることではなくて、自分がしたいことをしたらいい、と思うのです。

 

 そのときに、自分のしたいことというのは、単に自分の欲望、願望を満たすような利己的なことではないはずなのです。なぜなら、礼拝しているからです。神様を礼拝している人間が、自分のしたいことをするときに、それが単なるわがままであったり、利己主義であったり、自分のためである、そんなはずがありません。

 

 常にイエス様の言葉を聞き、イエス様と共に歩み、自分がどうしたらいいかわからないときは、常にイエス様にお祈りをする、そうした礼拝の生活をするならば、私たちは自分が人からどう思われるかではなくって、自分がしたいと思うこと、本当にしたいと思うことを神様に祈り求めながら実行したら、いいのであります。

 

 そうするならば、それがどのような生き方であったとしても、神様によって導かれ、そして私たちの生き方を見て、世の人々は、わたしたちの天の父なる神様をあがめてくれるのです。どんな形であるか、それはわかりません。あんな人でも教会に行っているのか、じゃあ、神様っているんだなあ、そんな風に思ってくださるのかもしれません。いろんな形で、世の人々というのは思います。答えは一つではないのです。だから、どんな自分であつたとしても、神様に希望をいだいて、そして礼拝をする、「地の塩・世の光」としていただくために、私たちは礼拝をしている。

 

 そのときすでに、「地の塩・世の光」とされている。そのことを私たちはしっかりと信じていきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。 

 天の神様、秋が始まりました。今までできなかったことを、少しずつまたしていきたい、そのように思います。それぞれの健康が守られ、また、家族のことや仕事のことや経済的なこと、また、政治や社会情勢に関する不安、特に国際情勢、世界の戦争やコロナ禍でのいろんな問題、山積みの問題があり、それによって心震わされるような、この世界であっても、私たちは日々自分がなすべきことがあり、また、自分のしたいこと、神様によって導かれて自分のしたいということが与えられたいと願います。どうか、この秋を一人ひとりにとって良い秋となしてください。

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

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「手探りの信仰、天からの祈り」
  2022年9月11日(日)京北教会 礼拝説教

 聖 書  ガラテヤの信徒への手紙 1章 6〜12節 (新共同訳)

 

   キリストの恵みへと招いてくださった方から、

  あなたがたがこんなにも早く離れて、

  ほかの福音に乗り換えようとしていることに、

  わたしはあきれ果てています。

 

  ほかの福音といっても、

  もう一つ別の福音があるわけではなく、

  ある人々があなたがたを惑わし、

  キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

 

  しかし、わたしたち自身であれ、天使であれ、

  わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を
  告げ知らせようとするならば、

  呪われるがよい。

 

  わたしたちが前にも言っておいたように、

  今また、わたしは繰り返して言います。

  あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、
  呪われるがよい。

 

  こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。

  それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。

  あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。

 

  もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、

  わたしはキリストの僕ではありません。

 

  兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。

  わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。

 

  わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、

  イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。





  (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 今まで京北教会の礼拝では、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読み続ける、ということをして参りました。そうしたことによって、聖書全体のメッセージをより深く聴いていきたいと願うからであります。

 

 その三つの中で、ローマの信徒への手紙を読み終えましたので、本日からはガラテヤの信徒への手紙を選んで読んで参ります。そして、マルコによる福音書旧約聖書と共に毎週順番に読むことによって、聖書を皆様と共に深く心に受け止めていきたいと願うものであります。

 

 今日読みました箇所は、ガラテヤの信徒への手紙の1章6〜12節であります。1章1節からの所には、ガラテヤの地方にある教会に宛てた手紙の最初として、使徒パウロの挨拶が記されています。そして6節からすぐに手紙の本論に入っています。

 

 このガラテヤの信徒への手紙の内容自体は、今まで読んできたローマの信徒への手紙と共通した内容がいろいろとあります。しかし、ローマの信徒への手紙が、使徒パウロがまだ行ったことのない、ローマにある教会の人たちに向けて書いた手紙であることに対して、このガラテヤの信徒への手紙は、パウロがよく知っている、実際に会ってきたガラテヤ地方の教会の人たちに向けて書いています。そして、より具体的なことについて書いてある所が、ローマの信徒への手紙と違う所であります。

 

 この手紙を書くとき、これを書いた使徒パウロからは、ガラテヤの教会の人たちに伝えたいことが明確にあり、そのことをはっきりと言葉で伝える、そういう調子が、この手紙には現れています。

 

 6節にはこうあります。「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」

 

 この手紙の内容は、もう、こういう言葉から始まっているのですね。1章の1節から5節までは、手紙の冒頭の挨拶です。挨拶の言葉を終えたあと、すぐにこういう、ガラテヤ教会の人たちを叱る言葉が書かれているのであります。このときに、ガラテヤの教会の中に起こっていたことが何であったかは、今日の箇所の中には具体的に書いてありません。

 けれども、聖書学者の研究によれば、この時代にあってパウロが宣べ伝えていた、イエス・キリストの福音とは違う福音、違う教えというものが、ガラテヤの教会の中に入ってきていた、そのほうに教会の人々が乗り換えようとしていた、つまり考え方がそっちに移ろうとしている、そういう危機的な状況があったということです。

 

 そしてそれは、どういうことであるかというと、パウロは、元々ユダヤ教の律法学者でありましたけれども、イエス・キリストを主として救い主として、信じる、その信仰によって神に救われる、という信仰をパウロは宣べ伝えていました。しかし、他の人たちの中には、同じイエス・キリストを信じるといっても、今までのように旧約聖書に記された様々な律法、宗教的な決まり事、これを守ることもやはり救いのわざにあずかるときには必要なのだと。そうした主張がありました。

 

 これは、この時代がきたときにとても大きな問題でした。ユダヤ教の信仰というものがあって、そして律法、決まり事、日常の生活や宗教生活、礼拝生活を様々に規定する決まり事というものがあった。それをしっかりと守ることによって、神に救われる。逆に言えば、その律法を守らなければ神に救われることはできない。そういう考え方を「律法主義」と言いますが、その「律法主義」というものがユダヤ教の中にありました。

 

 その中でパウロたちは、その律法によって人間は救われるのではない、神に対する信仰によって救われる、そのことを伝えました。それは、イエス・キリストが伝えて下さったことなのであります。人は行いによって救われるのでなくて、信仰によって救われる。イエス・キリストの教えはそういうことでありました。

 

 しかし、それに対して、いや、その考え方で行くと、律法を守らなくてもよい、ということになってしまうと、今までの様々な習慣、礼拝の仕方や生活の仕方、そういうものが崩れてしまう。それではいけない、ということで、律法をちゃんと守ることも、やっぱりこれは必要なんだ、そういう、パウロからすれば古い考えが浮かびます。そういうものを主張する人たちがいた。そのことが、今日の箇所で「ほかの福音」という言葉で言われていることだと考えられています。

 

 14節にはこうあります。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」

 

 ここでパウロは、6節で「ほかの福音」という言葉を使ったことに対して、「ほかの福音」という言葉を使ったけれども、何か実際に別の種類の福音というものがあるというのではなくて、本当の福音と、そうでないものがあるだけなんだと、ある人たちが、本当の福音を覆そうとしているだけだと言っているのです。

 

 つまり、福音というのはいろいろあって、そこから選んだらいいよ、というものではなくて、一つなんだと、ここでパウロは言っています。福音というのは「良き知らせ」という意味の言葉です。グッド・ニュース、良いニュース、良い知らせ、それが「福音」という言葉で日本語では表現されています。

 

 神様からの良い知らせ、それは、人は律法によって救われるのではなくて、信仰によって救われる、ということであります。つまり、何か善行を積む、たとえば、たくさん働いて、たくさんお金を稼いで、それを社会福祉献金する、そうした良いことをすれば、そのことによって神様に認められて救われる、あるいは律法の決まり事を毎日厳格にすべて守って生きる、そういう律法を厳格に守っていけば神様によって救われる、そういうものではないということです。

 

 その人がどんな人であっても、「神様、私を助けてください」「私は罪深い者です」と言って、神様の前で自らの罪を悔い改め、神様への信仰を持つならば、そしてまた、信仰というものは神様から与えられるものでありますけれども、神様から、その信仰というプレゼントをいただいたものが、救われるのであって、決して人間の努力、行いによるのではないとパウロは主張しているのであります。

 

 そして、その主張というのは、単に律法を守る・守らない、というだけでなくて、その人が何人であるかということに関係しています。その人がユダヤ人であるか、そうでないか。あるいはユダヤ教の教えを知っているか、知っていないか、そうした、その人の属性、何人であるか、国籍は何であるか、どんな文化のもとで生活しているか、あるいは男性であるか女性であるか、あるいは年齢が子どもであるか大人であるか、どんな経験をしてきたか、どこで学んだか、どの地域で暮らしているか。

 そうしたいろんな条件によって、「あの人は救われる」「あの人は救われない」と人を差別していた「律法主義」というもののすべてを、パウロはくつがえす、それがイエス・キリストの福音であると主張していたのであります。

 

 しかし、そのようなパウロの主張に対して、また別のことを言う人たちがいた。それは、パウロの主張があまりにも進歩的で、まあラジカル(急進的)に思えたのでありましょうか。今までの古い生活にあることも大事なんだ、そっちに戻ろう、そっちのほうが安心できる、そんなことを言われたときに、このガラテヤの地方にある教会の人たちは、まあ、そう言われたらそうだねえ、というふうになったのでしょうか。その言葉に説得力を感じたのか、イエス・キリストの福音への信仰から離れて、また律法主義の生活へと戻ろうとしていたようなのであります。

 

 そのことに対して8節でパウロは言います。「しかし、わたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」

 

 ここで、パウロは「呪われるがよい」という、すごく強い言葉を使っています。これは、パウロはガラテヤの教会の人たちと親密な関係、近い関係であったにもかかわらず、このように言っているのは、ガラテヤの教会の人たちを惑わしている人たちに対するパウロの強い気持ちを表しています。そんな人たちは「呪われるがよい」と言っているのです。

 

 8節の言葉はなかなか興味深い言葉です。「しかし、わたしたち自身であれ、天使であれ、〜呪われるがよい」と言っています。もし、違った福音を告げ知らせるとするならば、と言います。つまり、パウロパウロの仲間である伝道者自身が、「やっぱり、律法主義が良い」というようなことを言い出したり、あるいは天使、神様からの使いが「やっぱり、律法主義が良い」と言ってきたとしても、そんな者たちは呪われたらよい、とパウロは言っているのです。これは非常に思い切った言葉なのですね。

 それは、パウロたち自身、伝道者たち自身も間違うことがある、そのときに、その言葉に従ってはいけない、皆さん! ということを言っているのです。また、「天使」というときには、「これは天使から告げられた言葉です」というように、神様の権威を持ち出してきて、自分のことを正当化しようとする人たちがいたのではないか、と考えられます。

 

 そんなふうに言うことによって、パウロは自分が言っているからとか、天使が言っているからとか、誰それさんが言っているから、ということでなくて、あなたたち自身がしっかり判断しなさい、と言っているのです。

 

 9節で「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」というのは厳しい言葉ですね。その人たちの言うことを絶対に聞くな、 その人たちから離れろ、とパウロは言っているのです。こういう所でパウロは、いわゆる博愛主義者ではないのです。つまり、どんな人も良い人なんだよ、仲良くなろうよ、ということは、ここではパウロは言わないのですね。あの人たちの言っていることは、はっきり間違っている。呪われるがよい。ものすごい言葉であります。

 

 そして続けて10節ではこう言います。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 ここでパウロが言っていることというのは、パウロがこうして異なった福音を告げ知らせる人に対して、呪われるがよいと言っている、ここまで厳しく言っているのはなぜか、ということを説明しているのです。それは、こういうふうに言うことによって、ガラテヤの教会の人たちの中で言わば人気が落ちてしまったから、ちょっとまた自分の人気を高めるために、こんなことを言っている、ということではない、と言うのです。

 

 また、神に気に入れられたくて、何か自分の点数を上げたくて、ということではない。また、みんなから好かれたいと思って、ガラテヤの教会の人たちから救われたいと思って、こんなことを言っている、そんなことじゃない、とパウロは言っているのです。

 

 人間の中にある性分として、自分が造り出した新しい教会、あるいは人間関係というものがあって、そこで今までガラテヤの教会の中でパウロが非常に信頼されてきた、ところが別の人たちが入ってきて、パウロの人気が落ちてしまった、そこでパウロが怒って、あんな人たちと付き合うな、と言っている、というふうなことではない、とパウロは言っているのであります。

 

 「もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」そんな人間的な思いで言っているのではありません、とパウロは強調しています。

 

 そして11節からこう言います。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」

 
  ここでパウロはこのように言っています。そして、この後に、パウロは自分自身が、実際に経験してきた回心、回る心と書く回心、そのことを具体的に13節以降に記しています。

 

 パウロが今日の箇所で言おうとしていることは、福音というのは一つであって、そこから乗り換えることができるような別の福音というものはない、ということであります。

 そして、その福音というものは、パウロが自分の頭で考えついた、パウロが発明したような物の考え方であるとか、あるいは誰かから教えてもらった、どこかの本に書いてあった、というようなことではないのです。

 

 それは、神様から直接に伝えられたもの、ここでは「イエス・キリストの啓示」というように言っていますけれども、イエス・キリストから直接パウロの内面に対して伝えられたこと、それがイエス・キリストの福音なんだ、ということをパウロは言っています。

 

 これが、今日の箇所の全体であります。皆様は今日の箇所を読んで、どのようなことを思われたでありましょうか。パッと一読したときには、よくわからなかったという方も多いかもしれません。

 というのは、「ほかの福音」というものがどういうものがあるかが、ここには書かれていないからです。「ほかの福音」というのは、旧約聖書の律法を守ることによって人は救われる、という古い考え方、パウロからすれば古い考え方であります。

 

 それに対してパウロは、律法を守るから救われるのではなくて、神を信じる信仰、心の中のほんの小さな傾きであったり、神様が呼んで下さるその声に応えようとする心の中の信仰、それは神様からのプレゼントでありますが、その神様からのプレゼントを心にいただき、そのプレゼントに感謝して応えていく、その内面、その信仰によって人は救われる、ということであります。

 

 そして、パウロが言うような信仰を持つ場合、では律法はどういう役割を果たすかというと、救われた者が神様に対する喜びを持って感謝の証として、実行するものが律法ということになります。

 すなわち、それは自分をしばる掟ではなくて、神様への感謝として行うことになる。そういう意味で、やはり律法というものは意味があるのですけれども、人をしばるもの、あるいは裁くものであるか、それとも、神様に感謝を捧げるためのものであるか、ということで、その意味は全く違ってきます。

 

 パウロはこうして手紙を書き、ガラテヤの教会の人たちは、その陥っていた危機、つまり、ほかの福音というもの、その主張に乗り換えようとしていた、その影響を受けようとしていたところに、このパウロの手紙を受け取ることになったわけであります。

 

 こうした手紙の箇所を、現代の日本社会に生きる私たちが読むときに、少し何と言いますか、ピンとこないと言いますか、そういう気がするのではないかと思うのです。というのは、私たちが生きている日本社会にあって、本当の福音が何であるか、そうではない福音が何であるか、ということはほとんど考えることはない、と思うのです。一般的な生活の中で。

 

 また、律法主義ということについても、私たちはそもそも律法主義の世界というものを知りませんから、聖書の時代はそうだったんだということを聞けば、ああそうかとも思いますが、あまり実感は持てないのではないかと思います。

 

 では、今日の箇所を私たちはどんなふうに読んだらいいか、ということをここで考えてみます。本日は、9月11日、「9.11」という言葉を見るときに、私たちは、今から約20年以上前に、アメリカの大きなビルに飛行機がぶつかって大変なことになった。そして、それ以降の世界の情勢、変化した情勢、そういうことを思い起こすことがあります。

 

 この前にテレビを見ていますと、9.11を知っている人たちが、いま21歳以下の人たちは、それを知らないんだ、というアメリカの人のインタビューが出ていました。9.11のそのビルの中から階段を走り降りた人でした。もう21歳以下の人たちにとっては、それは歴史でしかないんだ、もう知らない人たちがどんどん増えているんだ、だから自分たちが語り部になって、これを後世の人たちに伝えていくんだ、そういうようなことをインタビューで語っているのをテレビで私は見ました。

 それを見ながら、私は自分でちょっと驚くものがあったのですね。そうなのか、もうそんなに時間が経ったのか、そしてその記憶が風化しつつあるのだろうか、と本当に驚きました。9.11の被害を展示している記念館が、コロナ問題もあって経営が悪化して、建物を閉館することになった、そういうニュースでした。そんなことになっているのか、と本当に私自身、この今から20年以上前のそのときのことを、その時代のことを思い出して驚くものがありました。

 

 あの日、夜中にパソコンを開いて何か仕事をしていたのだったかと思いますが、インターネットのニュースをたまたま見たとき、なんか不思議なニュースが出ていました。それは、アメリカで飛行機がビルに衝突した、原因は不明です、というふうな短いニュースでありました。一体何があったのだろうと私は驚きました。そして、しばらく時間が経つと、もう一機飛行機がビルにぶつかったようです。詳細はわかりません。そういうヘンテコな、意味不明な、しかし何かが起こっているのだ、と心が騒ぐ、胸騒ぎがする、ニュースの画面でありました。

 

 そのとき、私は何が起こっているか、さっぱりわかりませんでした。ずいぶん大変な事故があったのだなあ、そういうふうな気持ちがありました。次の日にいろんなニュースが入ってきて、本当になぜこんなことが実際に起こるのか、自分の目を疑うような画面を見、本当にその日から世界が変わったような恐怖感というものがありました。

 

 しかし、そこからもう20年以上が経っています。いま、私が9.11という話をしているのは、そのときに「文明の衝突」という言葉が使われたことを思い出しているからです。キリスト教の文明とイスラム教の文明がぶつかっているんだ、と言われました。そうしたことが本当に正しかったか、ということは私はちょっと疑問を感じているのですけれど、しかしそのときに世界における貧困、経済格差、文化・文明の違い、いろんなことが議論され、問われたときであった、そして現在でもそうであると思うのです。

 

 そんなことを考えながら、今日の箇所を読むときに、このキリストの福音、そして「ほかの福音」という言葉が使われているときに、ここに何か胸をギュッと刺す、ピリピリとするものを感じるのですね。

 今日の聖書箇所でパウロが主張しているのは、進歩的な考え方です。イエス・キリストを救い主と信じることにおいて、律法を守ることにおいて救われるのではなくて、本当に心の内面、信仰によってのみ救われるんだ、という考え方は、人間を様々な行いの制約といいますか、どんな行動をするかでその人の価値を判断するという、行動主義、行い、またその人の国籍や民族、血統、そうしたもので人を判断しようとする考え方に対して、進歩的な、進んだ考え方でありました。

 

 その進んだ考え方に対して、やっぱり昔のほうがいいよ、律法主義がいいよ、という人たちがいたら、ここでパウロと、そのパウロと違ったことを伝える人たちとの間に溝が生まれています。その中にあって、パウロはここで、ガラテヤ教会の人たちに、昔に戻ってはいけない、と言っています。

 

 ガラテヤ教会の人たちは、パウロイエス・キリストの話を聞いて、イエス様を救い主として受け入れた、信じた、そのことによって、このようないろんな人間的な制約、律法主義とか生活習慣とか、国籍や民族、血統、その地位、経験、そういった人間の属性と言われること、そういうことによって人が救われたり、救われなかったりするという、そういう「差別」の考え方ではなく、すべての人間を愛してくださる神様によって救われるという信仰、その信仰をしっかりと守るようにと、パウロはここで言っているのであります。

 

 そして、なぜ、そんなことを強く主張するかというと、それは人間的な思いで、自分の人気を高めたいとか、自分が今まで持ってきた、やってきたことを、人に取られたくないからとか、そうした人間的な思いではないと言います。

 

 そしてまたパウロが、自分で言っていること、というものが、もし間違っていたならば、決してあなたたちはそれを信じてはいけない、と8節で言っているのですね。「わたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」

 

 つまり、パウロだって間違えることがあるかもしれない。また、天使、神様の使いだと言って人を説得しようとする者がいたとしても、そう言っていることが間違っているならば、決して信じてはならないと言います。ここでパウロは、自分自身というものすら相対化しているのですね。人間的な思いで古い考え方に戻ってはいけない、とパウロはここで主張しているのであります。

 

 そして11節から言います。「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」

 

 それは、誰か人間が作り出した、物の考え方であったり、宗教であったり、哲学であったり、文化であったり、いろんな形で、あの人がこう言っている、この人がこう言っている、というようなことから神について主張しているのではなくて、パウロ自身が自分の人生の中で、本当の神様というものをパウロは伝えているのだと。

 その神様こそが大切なのであって、神に関する様々な人間の考え方に意味があるわけではない。その神様への信仰を堅く守って生きるように、そして、それを惑わせようとするあらゆるものに対してパウロは「呪われるがよい」と、きつい言葉を使っているのであります。

 

 こうしたパウロの言葉は、現代の私たち、文明の衝突と言われたときからもう20年以上経っていますけれども、世界中のいろんな文化、文明、また宗教、いろんな考え方があふれている、この世の中にあって、とてもストレートなメッセージなのですね。

 

 それはどういうことかというと、世間の人がいろんなことを言う、それは確かに一つひとつ原因がある、意味があることだと思うのです。けれども、あなたたち一人ひとりは、自分自身の人生の中で「ああ、これは大事だ」と思ったこと、「本当にこれは大事だ」と思ったことを大事にして生きなさい、とパウロは言っているのです。

 

 もちろん、いろんな考え方が世の中にありますから、いろんな影響もあるでしょう、誘惑を受けることもあるでしょう。考え方が変わるということは、それはこれからもあるでしょう。けれども、一番自分にとって根底的なものがある、それは単なる何かの人生哲学とか生活スタイルとか、そういうものではなくって、自分自身の心の中に神様がくださった贈り物があるでしょう、それをしっかりと信じ、そこに立って、そして古い考え方に戻らずに生きていきなさいと、パウロはここで強く私たちに促しているのであります。

 

 それまで自分をしばってきた、いろいろなものがあったのです。自分が何人であるか、国籍が何であるか、どういう血統であるか。そして、どんな教育を受けてきたか。男性であるか、女性であるか、どうなのか。年齢はどうなのか。神に救われるに値する立派な人なのか、それともそうでないのか、世の中にあって、選り分けられ、差別され、そのことによっていろんな意味で私たち人間というものは、分断されてきたのです。

 

 その分断されてきた時代に、また戻ろうとするのか。それとも、それを克服して、どの人も神様によって愛されて、神様によって救われる命なのだと、そういうイエス・キリストの福音に私たちは立ち続けることができるでありましょうか。

 

 もちろん、実際の政治やいろんな考え方、そのことについては、本当にいろんな考え方がありえます。ある考え方が正しくて、そうでない考えが間違っているとはいえない。政治、経済、社会、軍事、いろんな考え方をするときに、自分の考え方だけが正しいわけではない、ということを私たちは肝に銘じておかなくてはなりません。

 

 それと同時に、一方で私たちは、神様からあなたにくださった贈り物、それは信仰ということですね。イエス様を通してあなたがたにくださったもの、あるいはイエス様の言葉、あるいはイエス・キリストそれ自身、あるいは教会というもの、そうしたものを大切にする、そのことが大事なのです。

 

 そして、そこに立って、古い考え方に戻るのではなく、その神様から与えられた新しい贈り物、そこに立って世界のいろんなものを見て、いろんな人と話し合って、できれば勉強もして、どんどん変わっていくこの時代の中にあって私たちは、いつも神様から問われながら、しかし神様から招かれながら生きていると思うのであります。

 

 今日の説教題は、「手探りの信仰、天からの祈り」と題しました。私たちの信仰は、どの人にとっても手探りであります。最初から、その先が見えているわけではないのです。どこに何があるかわからない、この私の人生。その中で信仰というものは手探りです。

 でも、私たち一人ひとりに天からイエス様が言葉をくださるのです。イエス様自身が私たちの所に来てくださるのです。そこには、神様から私たちへの天からの祈りというものがあります。一人ひとり、神様からの贈り物を大切にして、導かれて生きることができますように、そのことを願います。

 

 お祈りをいたします。 

 天の神様、私たち一人ひとりに、それぞれ違った人生が与えられ、それぞれに考え方も違う中にあって、神様は私たちにイエス・キリストを通して、共に礼拝するという喜びをくださいました。いろんな時代の中で、本当に揺れ動かされる私たちの心でありますけれども、イエス様が私たちの所に来て下さっている、そのことを受け入れて信じ、また一人ひとり自分自身で判断して歩むことができますようにお願いいたします。この世界の中にあって、終わりがないような対立、戦争、抑圧、そして不安が心の中に膨らんでいくときに、神様から与えられてきたことを、私たちは思い起こし、希望を持って礼拝し、また世界の人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができますように、どうぞ導いてください。 

 この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。
 アーメン。







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「未来を神様に捧げる」2022年9月18日(日)
 京北教会「敬老と助け合いの日」礼拝説教

 聖 書  創世記 22章1〜13節 (新共同訳)

 

  これらのことの後で、
  神はアブラハムを試された。

  神が「アブラハムよ」と呼びかけ、
  彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。

  「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、
   モリヤの地に行きなさい。

   わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。」

  次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、
   献げ物に用いる薪(たきぎ)を割り、

  二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

   三日目になって、アブラハムが目を凝(こ)らすと、
         遠くにその場所が見えたので、

  アブラハムは若者に言った。

  「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。
   わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

  アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、
  息子イサクに背負わせ、

  自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

  イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。

  彼が「ここにいる、わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。

  「火と薪はここにありますが、
   焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。」

  アブラハムは答えた。

  「わたしの子よ、
   焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

  二人は一緒に歩いていった。

  神が命じられた場所に着くと、
  アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、
  息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

  そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、
  息子を屠(ほふ)ろうとした。

  そのとき、天から主の御使いが、
  「アブラハムアブラハム」と呼びかけた。

  彼が「はい」と答えると、御使いは言った。

  「その子に手を下すな。何もしてはならない。
   あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
   あなたは、自分の独り子である息子ですら、
   わたしに捧げることを惜しまなかった。」

  アブラハムは目を凝らして見回した。
  すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。
  アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、
  息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 




 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
  改行などの文章配置を説教者が変えています。
 新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 今日は、京北教会において「敬老と助け合いの日」礼拝と名付けた礼拝をしています。いわゆる「敬老の日」が9月にあり、高齢者の方々を覚える日です。そして単に高齢者の方を祝福する日ではなく、子どもから若者、様々な年齢の人、高齢者すべて含めて、どの世代も大切であり互いに助け合って生きていくこと、そのことを神様の前で感謝する日として、敬老と助け合いの日と名前を付けさせていただいています。

 

 そして聖書の箇所は、最近の京北教会では、マルコによる福音書使徒パウロの手紙、そして旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読むことにさせていただいています。今日は旧約聖書から選びました。

 

 今日の箇所には、「アブラハム、イサクをささげる」という小見出しが付いています。こうした小見出しは新共同訳聖書が作られたときに付けられたものであり、もともとの聖書にはありません。今日の聖書箇所で何が示されているかということは、一人ひとりの心の中に神様が伝えてくださることであります。

 

 今日の聖書箇所には、聖書の中で比較的有名と言っていいのでしょうか、知られている箇所です。そしてまた、この箇所は私たちにショックを与える箇所だと私は思います。

 

 順々に読んでいきます。

 「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい。』」

 神様はこのようにアブラハムに言われました。アブラハムという人物は、旧約聖書の中で非常に重要な人物であります。イスラエルという国、また民の一番元々の人です。小さな部族の長であったアブラハムが後のイスラエル民族の父と呼ばれる存在になりました。

 

 もともとイスラエルの人たちの源流は流浪の人たちだったと思われます。聖書の中では「さすらい」の人たちとも表現されています。そのような、さすらいの人たちであったイスラエル、最初は小さな小さな部族、その中にいたアブラハムを神様は選ばれ、導かれます。そこから後の、聖書の民としてのイスラエル歴史が始まっていくのでありますが、その元々の所にいるアブラハム、民族の父と呼ばれるこの人が、今日の箇所に登場します。

 神様はアブラハムに対して、その独り子イサクを連れて山に行き、そして、その息子を焼き尽くす献げ物として献げなさいと言われました。これは、神に対する献げ物ということであります。その時代において礼拝とは、神様に感謝を献げることであり、自分たちが持っているものの中で一番良いものを神様に献げる。そういう儀式でありました。

 

 そのために、自分たちが持っているものの中で一番良いものを献げる、そうした古代の宗教的な習慣があったわけでありますが、今日の箇所においては、その献げ物に、あなたの独り子イサクをそのようにしなさいと神様は命じたのであります。

 

 そして次の3節にこうあります。

 「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪(たきぎ)を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝(こ)らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。』」

 

 このように言って、お付きの若者二人をそこに置いて、アブラハムとイサクの二人だけで薪を持って出発したのであります。

 「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が『ここにいる、わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いていった。」

 

 このように記されてあります。アブラハムとイサクはたった二人で、その礼拝の場所まで歩いて行きます。そこで使う薪を息子に背負わせ、自分は火と刃物を手に持っていた。そしてイサクは尋ねます。小羊はどこにいるのですか、と。アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 

 この箇所を読むときに、何か心がギュッと詰まるような、悲しくなるような、そういう思いが私はします。

 

 「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハムアブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子ですら、わたしに捧げることを惜しまなかった。』アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」 

 このようにあります。今日の礼拝の朗読はここまでですが、聖書ではこのあとにも話が続いています。ここの地名が「主の山に備えあり」と呼ばれるようになりました。そして主の御使いは言います。「あなたがこのことを行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

 このように神様が御使いを通して語ったということが、16節以降に書いてあります。こうして今日の箇所は、1ページ半ほどの箇所でありますけれども、その中で読みながら何か胸が詰まるような、心がギュッと押しつぶされるような、何かそうした緊張感を感じる所であります。

 そして、読み終えたあとも、まあイサクが助かって良かった、最後は神様から祝福されて良かったと思うのですけれども、しかし、そこに至る過程において、なぜ神様はこのような残酷なことをアブラハムに命じたのか、そういう疑問が離れることがありません。これがキリスト教の神様、聖書の神様だというならば、神様とはなんと残酷な方でありましょうか。そのように思うのであります。

 

 私は今日の箇所をいろいろと読みながら、現代社会のことをいろいろ考えておりました。その中で私が思い起こしたのは、最近、ある新興宗教の問題が社会で大きく取り上げられ、そのなかで「宗教2世」という言葉が使われていることであります。

 

 ある新興宗教に入り、その独特の教えの中で家族が生活し、その価値観を教えられ、その価値観から逃れることが許されない中で育つことになった子どもたちを、宗教2世と呼び、その人たちの苦しみ、悲しみ、痛みということに、いま、社会の焦点が当たっているように思えます。

 

 そのことを考えながら、今日の箇所を読んだときに、このアブラハムがイサクを神様に献げようとした、その命を奪おうとしたこと、これはどういうことなんだろうか、神様を信じることによって自分の子どもを犠牲にする、それが正しい信仰なのだろうか。そう考えたときに、こう本当に胸が詰まっていく、苦しくなっていくようなことを私は思ったのであります。

 

 今日の箇所には、神様を信じる信仰とは何か、ということについての深い問いがあります。それは、信仰とは何か、ということ、そして、その中にある、信仰を家族で子どもに伝えていく、信仰の継承ということでありますが、それはどういうことであるか、と言うことも含んでいます。

 

 アブラハムとイサク、この親子はどのようにして神様を信じ、共に歩んだのでありましょうか。神様が理不尽な命令をいたします。大切な大切な独り子イサクを、神様に対する献げ物にしなさいと、そのことによって神に感謝する礼拝をしなさいというのです。

 そのことを命じられたアブラハムが何を考えたか、どう答えたかということは書いてありません。アブラハムは神様の言われることに口答えすることなく、反論することなく、言われた通り、行動しているのであります。 

 

 しかし、その過程における所で少しずつ、しゃべっている言葉にアブラハムの気持ちがかいま見えます。5節でアブラハムは言います。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」

 ここでアブラハムは、自分と息子が「戻ってくる」ということをはっきり言っています。今からそこへ行くのですが、また戻ってくる。もちろん、それは一人で戻ってくるという意味かもしれませんが、また戻ってくると言ったときに、アブラハムはどんなことを思っていたのか、と思います。

 

 そしてまた、7節でイサクが「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と聞いたときにアブラハムは言います。「わたしの子よ。焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 

 ここには、焼き尽くす献げ物、それはお前のことだ、というのでなく、それは神が備えてくださる、というのでありました。

 そして、アブラハムが語った、この途中経過の言葉から、アブラハムの思いを垣間見ることができます。アブラハムはイサクを神様に献げるということを無条件に納得していたのではありません。しかし、それは直接に口に出すことのできない思いでありました。

 そして、こうした経過をたどって、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした」とあります。

 

 アブラハムはまさにそのことをしようとしていたのであります。このときに、息子イサクが何を考えていたか、ということはここに何も記されてありません。しかし、私たちはイサクの気持ちを考えます。どんな思いだったのか。従順に従ったのか。それとも、「お父さん、何を考えているの?」、そういう思いでいたのでしょうか。もう想像を絶する場面であります。

 

 そのときに神様からの御声が聞こえました。主の御使いが言うのです。「『その子に手を下すな。何もしてはならない。」神様がイサクを守ってくれました。

 「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子ですら、わたしに捧げることを惜しまなかった。」

 アブラハムが神様の命じた通りに行動した、そのことでアブラハムの信仰を神様は理解し、そして息子イサクを守ってくれたのであります。代わりに献げる、献げ物の羊がそのすぐ近くに角が茂みにとられていました。そして、そこで礼拝をすることができたのであります。そして礼拝をして、アブラハムとイサクの二人は5節の言葉通りに、元の所に戻ることができました。

 

 本当に息詰まるような場面です。この箇所を読んで皆様は何を思われるでしょうか。私は本日の礼拝が、京北教会で「敬老と助け合いの日」礼拝ということで、説教をさせていただいています。そのテーマを考える中で、家族とは何だろうか、特に親子って何だろうか、ということを考えました。敬老というときには、親子というよりも、親子、孫ぐらいの年が離れた関係を考えることもできるのでありますけれど、子であれ孫であれ、血の繋がった関係の中で、神様を信じる信仰というものがどういう意味を持っているのだろうか、ということを思うのです。

 

 本当の信仰というものを伝えるためには、息子を神に献げるほどのことをしなければならないのでしょうか? 息子の命すら神様に献げる信仰が求められているのでしょうか。宗教というものがそういうものであるとすれば、キリスト教というものがそういうものであるとすれば、それは何とむごいことか、ということも思うのであります。

 

 こういう箇所を読みながら、私もクリスチャンホームの2代目でありますから、まあ「宗教2世」と言われたら、そうかもしれません。その言われ方は私は好きではないのですけれども、社会全体で考えたときに、いわゆるカルト的な宗教と呼ばれる、そこに生じる問題ということは、これは非常によく伝わってくるのであります。

 けれども、そのカルト的な、ものすごく狭い価値観の中に閉じ込められて、その家族の中で苦しみが起きてくる、その思いを、たとえば私自身がしてきたか、というと、そうではなかった、という思いがあるのです。それどころか、私自身は、家がクリスチャン・ホームであるということから、その中で育つことの喜びや恵み、そして同時にもちろん葛藤ということもありました。

 

 どうして自分の家(うち)だけ、日曜日に礼拝に行かなくてはいけないのか、という思いがありました。また私が小学生のときに父親が家庭礼拝というものを始めて、父親が礼拝説教をして少人数の礼拝をしていました。一体なぜそんなことをしなくてはならないのか、というやるせない思いをしたことも思い起こすのです。

 

 しかし、そうしたことを思い起こしても、それは、そうした所にある葛藤ということを通して、自分自身が成長する過程であったということをハッキリと思い起こすのです。理不尽な価値観を強いられて苦しみながら生きるとか、そこから逃れられない苦しみの中で生きる、ということはありませんでした。

 

 もちろん、親とぶつかることは多々ありましたし、不満を感じることは多々ありました。けれども一方で、教会に行くことが楽しいことであり、その礼拝に行けば、教会学校に行けば仲間たちがいて先生たちがいて、そして楽しいお昼の食事があり、いろんな行事があり、そうした教会の楽しさということも私は知っています。

 また、家庭で礼拝をしていたときに、どうして私の家庭だけこんなことをしているのだろう、という思いもありましたけれど、同時にそれは家族というものの、温かみということを感じる機会でもありました。

 

 親子の関係、家族の関係というものは難しいものですね。あるときには他の家を見て、あの家はうらやましいなあ、いいなあ、と思って、なんでうちはこんななんだろう、と思っても、ずっとあとになると、うちは良かったなあ、と思うこともあるのです。

 

 もちろん、それぞれのご家庭に良さがあり、何が良いとか悪いとかいうことではありません。それは宗教についてもそうです。あのお家の宗教は良くて、あのお家の宗教は悪くて、というようなことは思いません。

 

 そう私が思えるのは、最終的に私がイエス様に出会って、聖書の信仰が確かなものであることを自ら信じることができるようになった、神様にそう導かれたから、そのように言えるのかなあ、ということを思います。

 

 そんな思いの中で、今日の聖書箇所をもう一度読み返してみますと、今日は敬老の日、敬老と助け合いの日にあたっても大切なことを言っていると思うのです。

 というのは、このアブラハムとイサクの関係、今日の箇所はものすごい緊張感があるのですけれど、アブラハムもイサクもそんなにたくさんしゃべりませんね。特にアブラハムは、神様からこんな理不尽なことを命じられて、言いたいこと一杯あったでしょうが、何も言わないで行動しています。そして、しゃべらざるをえないときに、ぽそっ、ぽそっ、と自分の思いを言うのです。神様の思いに逆らうことは言わない。でも、一方で自分の思いというものもちゃんと持っている。そんな思いが伝わってきます。

 

 イサクも黙っています。どうしても聞きたいことは聞きます。「お父さん。」そういって聞きます。「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」子どもならではの正直な疑問。それはどこにいるのですか?

 それに対して、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 その小羊はどこにいるの? とイサクは聞きたかったかもしれませんが、聞きません。親も子も互いに言葉を選んでいます。というか無口になっているのです。そして、おそらくと私は思うのですが、親子両方とも、心の中はいろんなことで一杯だったと思います。

 「どうしよう」「どうしよう」「これからどうなるのだろう」「ああ、どうしたらいいのだろ

う」……そんなふうに一杯考えていたのではないでしょうか。それは私の想像でしょうか。もしかしたら、そんなにあれこれ考えずに、これでいいんだ、といって精神集中して何も考えないで、アブラハムはいたのでしょうか。そうかもしれません。人の気持ちというものはわかりませんね。

 

 この敬老の日と言うことに関して私が思うことは、親子であっても家族であっても、高齢者であっても子どもであっても、お互いの考えていることというのは、よくわからないものだ、ということであります。そして言葉が少なくなっていくのです。

 お互いのことがわかりたい、理解しあいたい、けれどもやっぱり言えないことがあるのです。言いたくないことだってあるのです。あるいは、言葉にできないことだってあるのです。そしてその、言葉にできないまま、無口なまま、無言のまま、二人は一緒に歩いていった、ということが今日の箇所に何度か出てきます。

 

 二人は一緒に歩いていった。お互いに荷物を持っていった。献げ物が本当にどこにいるかわからない、あなた自身が、イサク、お前自身がその小羊なんだ、ということが言えない、アブラハムが無言のまま、イサクと一緒に歩いています。イサクはイサクで、何のために自分たちはそこに行くのだろうか、しかしお父さんについて行きます。お父さんを信頼していたからであります。

 

 お互いに無口なまま、二人で一緒に歩いていきます。そして、神様の命じた通りに行動しようとするときに、神様ご自身がアブラハムを止めて下さいました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。」

 

 ここで神様に対して皮肉った言い方をするならば、この言葉というのは本当に「どうかなあ」と思います。だって、神様が言うからアブラハムはやろうとしたのですよ。それにもかかわらず、「その子に手を下すな。何もしてはならない。」

 

 それは神様、あなたが言ったことでしょう。あなたが言わなかったら、私はこんなことはしていませんよ。それを、まるで私が悪者で、それを神様が止めてくださったような形になっているじゃないですか。どういうことなんですか。私だったらそう言ってみたいのですけれど、アブラハムは何も言いません。何にも言わない。そこには、もうあふれるほどの思いがあったのか、あるいは、もう何も言えない思いだったのか、それはわかりませんが、親子の関係というものは、こういうものではないのか、と思います。

 

 理不尽な暮らしを強いられている。神様の導きのもとに、導きを信じて生きていこうとしたら、こんなことになってしまっていて、なぜこんなことをしなければいけないんだ、という思い。そしてそのことをしようとしたら、逆に自分が悪者にされている。何なんだこれは、と思えるような、そんな関係というものが、親子の関係、あるいは家族の関係というものの中には、あるのです。

 

 そしてこの理不尽な、神の命じたことを、そのことによって、アブラハムとイサクは、ずっとお互いに言葉少なく無言で一緒に歩いている、もしかしたら、そのように無言で一緒に歩いているときに、このアブラハムとイサクは、実は、たくさんたくさん、会話をしていたのかな、ということを思うのですね。

 それは、実際に言葉に出しておしゃべりするような会話、ということではないです。何にも口に出さない。けれども、二人はお互いに会話しているのです。イサクは、「お父さん、これはどこへ行くの」「何をするの」「お父さん、何を考えているの」と思っています。アブラハムも思っています。「どうしよう、どうしよう」「いつ言ったらいいのだろう」と思っています。

 

 そんな二人、お互いに口には出さない。しかし思っていることは、実はどこかで通じ合っています。無言で通じ合っている。実は、このとき、何にも言葉を出さないけれど、二人は会話をしていたのではないかな、と思うのです。そして一緒に神様を信じて生きる親子で、家族で、信仰を継承していくということは、そういうことなのかな、そういうことを思うのですね。

 

 「キリスト教信仰とは何であるか、さあ、これを信じたまえ」、なんてお父さんが言ったって、子どもはあんまり信じたくないのです。けれども、そんなふうに「ああしなさい、こうしなさい」と命じるのではなく、無言でいる、無言で一緒に歩いていく、無言でいるのだけど、二人はたくさん会話している、お互いの思いを探り合うような、尋ね合うような、そういう思いでいるときに、それは実は、神様の目から見たときに、この親子はたくさん会話をしていたのではないか、と思うのです。

 

 そして、その中で、神様を信じる信仰というものが、どういうことかを、この親子が両方ともに、神様から教えられていたのでは、と思うのです。そしてその結論として、アブラハムが神様の命じられたことを実行に移そうとしたときに、「その子に手を下すな」と御使いが言いました。アブラハムというお父さんが悪者にされる形で、イサクは救われたのであります。

 

 そういう形で、親というものが、子どものために悪者になって、ある意味、犠牲にされていく、そのことによって信仰というものが、子どもに継承されていく、そういう物語ではないか、と私は感じました。

 

 敬老の日において、高齢の方々に、本当にみんなで神様に感謝をいたします。高齢の方々に感謝をするだけではなくて、高齢の方も若い人も子どもも、みんなで一緒に生きていく、無言で言葉を交わせなくても、一緒に歩いていく中で、たくさんの無言の会話をすることによって、お互いのことを知り、神様の前に一緒に生きていく、そうしたことが大切ではないかと思うのであります。そして、高齢の方たちの無言の歩み、その後ろ姿を通して、信仰というものを教えられ、感謝してみんなで共に歩んでいきたいと願うものであります。

 

 お祈りをいたします。 

 天の神様、今日、御言葉を通して与えられた恵みを感謝いたします。またまだ暑い日が続くかもしれません。また、大きな台風が近づいていて、注意を呼びかけるニュースが出ています。どうか私たち一人ひとり、それぞれの健康や生活が守られ、命が守られ、そして、それぞれの信仰もまた、守っていただいて、また家族やいろんな世代の方々が共に、神様の恵みのもとで生きることができますようにお導きください。 

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

 

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「叫ぶ人を見つめるイエス
    2022年9月25日(日) 京北教会 礼拝説教
 聖 書  マルコによる福音書 10章 46〜52節 (新共同訳)

 

  一行はエリコの町に着いた。

 

  イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、

  エリコを出て行こうとされたとき、

  ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

 

  ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、

  「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

 

  イエスは立ち止まって、

  「あの男を呼んで来なさい」と言われた。

 

  人々は盲人を呼んで言った。

  「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 

  盲人は上着を脱ぎ捨て、

  躍り上がってイエスのところに来た。

 

  イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。

  盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

  そこで、イエスは言われた。

  「行きなさい。
   あなたの信仰があなたを救った。」

 

  盲人は、すぐ見えるようになり、

  なお道を進まれるイエスに従った。

 

 

 

 

 (上記の新共同訳聖書からの抜粋掲示では、
   改行などの文章配置を説教者が変えています。
   新共同訳聖書の著作権日本聖書協会にあります)

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 (以下、礼拝説教)

 

 現在の京北教会の礼拝では、マルコによる福音書使徒パウロの手紙、旧約聖書、その3箇所を毎週順番に皆様と共に読むことにしています。本日はマルコによる福音書10章です。

 

 ここに出てくるのは、福音書の中によくある奇跡物語です。主イエス様が障がいを持つ方をいやしたという話です。四つの福音書にはどれにも、こうした病や障がいのいやしの話がたくさん収められていますから、珍しいものではありません。そして、いくらか聖書を読んでいると、福音書の中に出てくるこうした話を読むことになれてしまって、ことさら特別なことは思わなくなるのではないかと思います。

 

 しかし、本日の箇所には、注目したい言葉があります。それはイエス様が最後に言われた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。この言葉のあと、盲人は目が見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、とあります。「あなたの信仰があなたを救った」、これはどういう意味でありましょうか。

 

 この「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は他の箇所にも出てきます。ルカによる福音書では8章に、12年間病気が治らなかった一人の女性の話があり、この話の最後にも「あなたの信仰があなたを救った」という言葉があります。

 

 この、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を、みなさんはどのように受け止めるでしょうか。これは、「自分には信仰なんてない」とか「信仰なんて私には関係ない」と思っている人にとっては、まったくびっくりするしかない言葉です。自分の中にあるはずがない信仰というものが、実はこの私の中にあるんだ、ということをイエス様から言われたならば、私たちは驚きます。

 

 それは、信仰とは何か、ということが私たちはよくわからないからです。信仰とは何でしょうか。信仰とは何か、と聞かれて、信仰とは、これこれこういうものだ、というはっきりした説明をすることは、なかなか難しいものです。というのは、信仰とは心の中のことなので、目に見える形で表せないものだからです。

 

 信仰ということを表すときには、信仰そのものではなくて、信仰に近いところにあることでしか示すことができないのではないかと私は思います。信仰に近いところにあるものとは、たとえば、聖書です。あるいは祈りです。あるいは礼拝です。または讃美歌。または教会音楽。または小説などの文学や絵画や彫刻といった文化。

 

 また、そうしたものとは別に、信仰者の生き方というものものあります。毎週日曜日に神様を礼拝すること。人を愛すること。奉仕すること。献金すること。家族を大切にする生き方。国際社会で正義や公正を求める生き方。などなど、信仰、ということを表すものは様々にあります。それらは、どれも信仰ということに近いところにあることです。

 

 けれども、今申し上げた様々なことは、どれも信仰ということに近い所にありますが、信仰そのものとは言えないのではないかと私は思います。その理由は、信仰というものは、あくまで神様と人間の関係の中でしかわからないもので、しかも、人間の心の奥底にあるものだからです。

 

 そして、聖書を読んでいますと、信仰とは何だろうかと考え込んでしまうような箇所があちこちにあります。それは、人間は神様への信仰を持っていても、やはり失敗するからです。間違うのです。罪をおかすのです。そうであれば、信仰とは一体何でしょうか。

 今日の聖書箇所では、イエス様は一人の目の見えない人に対して、「あなたの信仰があなたを救った」とあります。これは、一人の人間に対する神様からの宣言です。信仰とはこういうものだ、ということがはっきりと宣言されています。この一人の人の信仰は、自分自身を救う信仰でありました。そして、その具体的な現れは、その人の目が見えるようになることでした。ここから、信仰とは何かを、さらに考えてみます。

 

 本日の箇所にはバルティマイという一人の盲人が登場します。こうしたいやしの奇跡の話で、いやされる人の名前が出てくることは珍しいことですが、名前が出てくるからといって、この人が何か特別な人だったとも書いてありません。この人は道端に座って物乞いという仕事をして生活している人でありました。

 ここで、物乞いということを、一つの仕事と表現することは本当は適切なことではないと思います。しかし、当時のユダヤの国の社会においては、旧約聖書に記された律法の精神というものが大切にされていました。その中には、困った人たちにお金を恵んであげる、いわゆる「喜捨」、喜んで捨てるという漢字を書きますが、施し、今で言えば寄付、ということが、神様を信じる信仰を示す生活態度として人々の一つの義務としてありました。

 ですから、そうした信仰によって施しをする義務を持ったユダヤの人たちの心に届くように、物乞いは叫んでいたはずです。ちょっと、そこを歩いているあなた、あなたが、お金を私たちに恵んでください、そうすればあなたは天に徳を積んで神様に認められるようになりますよ。そういう宗教的な意味での寄付のお勧め、という意味も、物乞いという立場にはあったのです。そういう意味で、物乞いとは、社会の底辺にあって、その社会の持つ宗教的な働きによって生き伸びている仕事であったといってもよいかもしれません。

 

 そうした物乞いという立場で生きてきた、バルティマイという一人の盲人に、あるとき、それまでにはなかったことが起こりました。彼が物乞いをしていた道ばたの道に、主イエス・キリストと弟子たちの一行が通りかかったのです。

 このとき、イエス様のまわりにはたくさんの人がいて、バルティマイは近づくことができません。いや、それ以前に、目の見えないバルティマイにとっては自らイエス様に近づいていくことはできませんでした。人に遮られてしまうからです。このとき、バルティマイは見えない壁にさえぎられてイエス様のところに行くことができなかった、と言ってよいと思います。

 

 当時の社会においては、障がいを持った人間は罪人と考えられいました。その人やその人の親が神様に対して罪をおかしたから、病気や障がいを持ったのだと思われていました。その時代において、自分は健常者だと思っていた人たちは、病人や障がい者に近づきませんでした。また、近寄らせようともしませんでした。その社会の中で、バルティマイは、自らの目が見えないだけではなく、健常者の側が作り出す、見えない壁によっても、このとき、イエス様に近づくことを阻まれていたのです。

 

 その見えない壁を突き破ろうとしたのが、このバルティマイでした。彼は大きな声を上げて叫び続けます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」そのように叫び続けました。しかし、それを聞いた近くの人たちは、バルティマイを叱りつけて黙らせようとします。

 その理由は、彼のような盲人は罪人なので、イエス様のような立派な人からははるかに遠い存在、近くによることができない存在だと思われていたのです。しかし、バルティマイは叫び続けます。48節にあるように、彼はますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。

 

 ここで「ダビデの子」と言っているのは、旧約聖書に記された救い主、メシアという意味です。神様から遣わされて、この世界を救ってくれる救い主、メシアという存在は、旧約聖書に記された古代のイスラエルの最も強かった王様であるダビデという人の子孫から生まれる、という、旧約聖書に記された預言の言葉を、このバルティマイは知っていたのです。

 だから、今この道を通りかかったイエスという人は、ただの人ではなく救い主だということを、バルティマイは強調して、叫んでいるのです。救い主、イエス様、わたしを憐れんでください! とバルティマイはここで叫んでいました。

 

 その叫び声が、それを遮っていた人々の見えない壁を突き破って、ついにイエス様の耳に届きました。イエス様は立ち止まって言われました。「あの男を呼んできなさい」と。このとき、バルティマイが今までの人生の中で、目が見えない物乞いとして生きてきた、その生き方が役に立ったのです。

 それは、人通りの多い道ばたに自分の居場所を作って、そして道を歩く人たちの耳に残る短い言葉を、繰り返し叫んで自分に注目を集める、という物乞いとしての今まで実践してきた、生きるための手段である、「叫ぶ」ということがここで生きた、役に立った、ということです。

 ふだんから道端でそうやってバルティマイは、自分が恵んでもらうために大きな声を出し続けてきた、人の心にぐさっと刺さる言葉を発して、「憐れんでください」と叫んできた、そのやり方がここで実を結んだのです。

 道端を通る人に対して物乞いをするときに、長い身の上話などをしている時間はありません。人々は一瞬で道を通り過ぎて行きます。バルティマイは今まで、そんなたくさんの人に届けられる言葉は、ごく短い言葉でしかないことを知っていました。自分がどんな人間で、どうして目が見えなくなって、どうして今の生活をしていて、なんていう説明をしている時間は物乞いにはありません。

 ほんの一瞬、目の前を通り過ぎる人間の心に届く、ごくごく短い短い言葉を叫び、それを聞いた人がドキッとして、胸を痛めて、ああ、なんてかわいそうな人なのだろう、少しだけでも恵んであげよう、そのように思わせる短い一瞬の言葉を、物乞いであるバルティマイは今まで叫んできました。その物乞いの技術が今、ここで活きたのです。

 

 バルティマイは、イエス様の心に言葉が届くようにと、端的に、あなたがどんな人で、そのあなたに私はこのことを願っています、という、ただそのことだけを叫び続けたのであります。あなたはどんな人であるか。それは旧約聖書に記された救い主、メシアであるということ。そして、そのお名前はイエス様といいます。

 そして、そのイエス様にこの私が願うことは、たった一つ、「わたしを憐れんでください」ということでありました。そして、その言葉がイエス様の耳に届いたのです。当時の社会における健常者の意識、そして当時の宗教の意識が作り出していた、見えない壁を、物乞いであるバルティマイの生き方から生まれた言葉が、突き破ったのです。

 

 人々は盲人を呼んで言いました。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」周囲の人たちのこの言葉を聞いて、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た、とあります。着ている服を脱ぐのは、今まで自分をその下に隠していた覆いを捨てるという意味があると思います。

 躍り上がってというのは、本当にうれしくてしょうがない様子を示しています。それは、目が見えないバルティマイにとって、躍り上がるというのは、他の人に見せるための喜びのしぐさではなくて、自分自身の内側からあふれ出すような喜びの力でありました。

 

 そしてバルティマイはイエス様の前に来ました。イエス様は尋ねます。「何をしてほしいのか」と。ここを読んでいて、私たちは何か思わないでしょうか。それは、福音書に出てくる障がい者の方々は、イエス様の奇跡によって障がいが直されることを、聖書の読者である私たちは知っています。だから、イエス様がわざわざここで目の見えない人に対して「何をしてほしいのか」と尋ねることが、不必要な気がするのです。

 あるいは、イエス様は、この盲人の気持ちを知っていながら、わざとそれを知らないふりをしているのだろうか、とさえ思えます。しかし、よく考えてみると、バルティマイは道端で叫んでいたときは、「わたしを憐れんでください」と言っていましたから、具体的に何をしてほしいかは言っていなかったのです。だから、ここでイエス様はバルティマイに尋ねたのです。「わたしを憐れんでください」ということが、どういう意味であるかを。

 

 このイエス様の言葉は、物乞いであるバルティマイにとっては意外な言葉だったと思います。というのは、今まで道端で大きな声で「わたしを憐れんでください」と叫んだときに、道を通る人たちは、「あなたは何をしてほしいのか」とは尋ねてくることがなかったからです。

 人々は物乞いにそんなことを尋ねることは考えもしなかったでしょう。人々は、物乞いという人は、お金を求めているのだと、尋ねなくてもわかっていました。だから、私を憐れんでください、と言われたら、その言葉に応えて、わずかばかりのお金を入れ物に投げいれるだけでした。そこには、お金を入れる人と物乞いとの間には人間関係などありません。

 けれども、イエス様は違いました。「何をしてほしいのか」と、この物乞いに尋ねたのでした。バルティマイはこのとき、「お金をください」とは言いませんでした。恵んでください、とは言いませんでした。そうではなくて、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。

 

 このとき、バルティマイは、本当に信頼できる人に出会ったのです。目の見えない物乞いだから、きっとお金を求めてくるのだろう、と思わずに、「何をしてほしいのか」と、自分の本当の希望が何であるかを尋ねてくれた主イエス様と出会ったのです。それは、今まで罪深い人間社会の底辺にあって、社会の中で罪人と呼ばれ、家族の中からも排除され、社会の最低限の救済のネットワークの中だけで生きてきたバルティマイが、神様に導かれてそこを脱して、自分の力で生きていきたい、という願いを言葉にするときとなりました。

 

 そのときにイエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この言葉はイエス様の宣言です。バルティマイは、自分の信仰によって自ら救われたのです。イエス様の言葉がそれを証明しています。彼の目はすぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従ったとあります。

 

 このとき、イエス様は都エルサレムに入る直前でした。それは、イエス様が無実の罪でとらえられて十字架にはりつけにされて死なれる、その直前の時期であったということです。その時期にイエス様に出会って、なお道を進まれるイエス様に従ったといっても、このときの少し後にはイエス様は十字架で死なれるので、実際にイエス様に従って行動できたのは、とても短い期間でした。

 けれども、その最後の時期にこうしてイエス様に従うことができたので、他の箇所では病気や障がいが癒やされた人の名前はあまり書かれていないのですが、本日の箇所においては、バルティマイという、この人の名前が特別に書き残されたのかもしれません。

 

 さて、ここで本日の説教の前半に申し上げたテーマに戻ります。信仰とは何か、ということです。今日の箇所でイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この場合の信仰とは何でしょうか。信仰があるとイエス様から言われた、このバルティマイという人は、どんな人だったでしょうか。本当に信仰がある人だったのでしょうか?

 

 彼が、たくさん聖書を読んでいた人かというと、そんなはずがありません。目が見えないからです。また、物乞いという仕事はどうでしょうか。それは、正式な労働とは認められないので、社会に貢献しているとは思われません。公正な働き、正義の仕事とも思われません。そういう意味で、聖書の律法に従った良い生き方とは思われません。

 こうして考えていくと、私が本日の説教の前半で申し上げました、信仰ということに近い所にあるものとしての、聖書とか礼拝とか、あるいは社会で正義の模範になる生き方とか、そうしたものからバルティマイという人の人生は遠かったのではないかと思います。

 

 すると、イエス様が言われた「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、バルティマイの何を指して、それを「信仰」といっているのでしょうか。私は、本日の箇所を何度も読んでいて気づかされることがありました。それは、この箇所でバルティマイは、物乞いという仕事をずっと続けてきた中で、自分が身につけてきた、生きるための努力と、そこから生まれた技術というものを、ここでイエス様が自分の近くを通ったときに、最大限に発揮したということです。

 

 目が見えないバルティマイが、思いっきり大きな声を出して叫び、一瞬でも意味がわかる短い言葉に自分の思いを凝縮し、そして、黙れと言われても決して黙らずに叫び続けた、そのバルティマイの姿は、自分が物乞いとして生きてきた人生の総決算だったと私には思えます。

 物乞いという、社会から与えられた立場の中で精一杯の努力をしてきた、その自分の努力をここで神の子、主イエス・キリストにぶつけて、自分の声を届かせようとするとき、周囲の人たちから最初は叱られて止められますが、それでも叫び続けることによって、その声は見えない壁を突き破ります。

 

 そのバルティマイの言葉と行動を受けて、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されます。それは、「この救いはあなた自身の信仰によるものなのだ」という宣言です。この言葉は、バルティマイが物乞いであることに関係しています。すなわち、バルティマイは、今までは、自分が物乞いとしてどんなに努力しても、物乞いで得た収入は、人からの同情によって与えられたお金です。社会の無数の人々の宗教的な同情心によって、物乞いが自分の前に置いた入れ物にチャリンと入れられたお金です。

 

 それに対して、イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と言われたとき、その「信仰」とか「救い」というものは、人からの同情、あるいは神様からの同情として、ああかわいそうだね、と言われて入れ物にチャリンと音を立てて入れられるようなものではなく、自分自身の中にある力が自分を救ったということ、つまり「信仰」も「救い」も、神様の導きによって、あなたの中に生まれてきた、あなた自身の力なんだ、ということが言われているのだと私は思います。

 言葉を代えて言いますと、「あなたは、あなたの責任を果たすことで救われた、それは他人からの同情によるものではない」と、イエス様はここでバルティマイに宣言したのだと私は思います。

 信仰、それは、自分が生きることの責任を果たす、ということではないでしょうか。それは、決して、人間を外から見て、どれだけ信仰深く生きているように見えるか、ということとは関係がないのです。そんな、一人ひとりの信仰ということを、本当に知ってくださるのは、主イエス・キリストであり神様のみであります。     

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちはこの現代において、世界中で終わらないコロナ禍に苦しみ、またウクライナでの終わらない戦争によって日本の経済や政治にも大きな影響が生じている、本当に世界中が困難な時代を生きています。この時代にあっても、一人ひとりの人間が、どんなに小さくても、神様に愛されて生きるように導かれていることを信じます。どうか主イエス・キリストが一人ひとりの人間と共にいてくださいますように。そして、私たちが聖書の言葉に親しみ、絶えず祈り、自分を愛するように隣り人を愛し、天の神様の導きによってこの世界にまことの平和が与えられますように、心からお祈りいたします。 

 この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げいたします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 (ある日の夕方の鴨川べりの様子)