京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年9月の礼拝説教

2021年9月5日(日)、12日(日)、19日(日)、26日(日)
京北教会の礼拝説教

 

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「秋を始める福音」

 2021年9月5日(日)礼拝説教 

 聖 書  マルコによる福音書 6章 30〜44節

  (以下、新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、

 自分たちがおこなったことや教えたことを残らず報告した。

 

 イエスは、

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」

 と言われた。

 出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

 

 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、

 すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

 

 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、

 飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。

 「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。

  そうすれば、自分でまわりの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」

 これに対してイエスは、

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。

 弟子たちは、

 「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、

  みんなに食べさせるのですか」

 と言った。

 

 イエスは言われた。「パンはいくつあるのか。見て来なさい。」

 弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

 

 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、

 青草の上に座らせるようにお命じになった。

 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

 

 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、

 パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

 

 すべての人が食べて満腹した。

 そして、パンのくずと魚の残りを集めると、十二のかごに一杯になった。

 パンを食べた人は男が五千人であった。

 

………………………………………………………………………………………………………
 

 (以下、礼拝説教) 

 

 暑かった8月の日々が終わり、9月に入りました。本日の説教の題は「秋を始める福音」と題させていただきました。まだまだ暑い気候、そして雨天、そうした夏の空気も続くと思いますが、暦の上ではもう秋に切り替わっています。新たな思いでこの秋を歩み始める、そういう思いで今日、9月第1日曜にあたり、イエス・キリストの福音の言葉を、秋を知らせる良き知らせとして、皆様と一緒に聞いていきたいと願っています。

 

 夏の終わりに、パラリンピックが行われていました。テレビで毎日、私は見ておりました。先日、夏期休暇をいただきましたが、コロナ禍において、遠方へ行ったり会食したり、人と会うこと、それら自体がつつしむべきとされている今、私にとって、テレビでパラリンピックの放映を見るということが、この夏期休暇のひとつの楽しみでありました。

 

 今までパラリンピックの競技を見るという経験がほとんどありませんでしたので、最初は見ていて少し戸惑うものがありました。それは何かというと、ルールがよくわかっていないということがあります。そして何よりも、どこを見たらいいのかという、見所がつかめないということもありました。最初はよくわからないままに見ていたのでありますが、テレビの解説を聞きながら、だんだんとルールがわかったり見所がわかってくると、段々とそのおもしろさが伝わってきました。

 

 それまで、オリンピック・パラリンピックが東京で行われることが決まってから、様々なパラの競技の宣伝や解説などもテレビでちらちらと見ていたこともありましたが、本当の意味でパラリンピックの競技そのものを見ることはほぼなかったのです。ですから、頭の中でイメージしているパラリンピックの競技と、実際に行われているその競技を見るという感覚はずいぶん違いました。

 

 戸惑いましたし、正直あまりおもしろくないという気持ちを持ったこともあります。けれども毎日見ていますと、段々わかってきます。観客が入っていないので、どこが歓声が上がるような場面なのかもわかりませんが、しかし内容が段々とわかってくると、見ていて熱が入ってきました。

 

 この秋に私はそんな経験をしたのでありました。そしてこう思いました。私たちが聖書を読むということも、こうしてパラリンピックを見るということと、少し似ているかもしれない、ということを思ったのであります。

 

 本日の聖書箇所は、マルコによる福音書6章であります。ここには、5000人の食事、あるいは5000人の給食、食事が与えられるという意味で5000人の給食、と言われるイエス様のお話が載っています。

 

 たくさんの群衆がイエス様の話を聞くためにやってきたけども、その群衆の食べる食事がなかった。その場には、五つのパンと二匹の魚しかなかった。そこで弟子たちは、解散させてくださいと願ったのですが、つまりこんなたくさんの人の食事の面倒を私たちは見ることができませんから、夕方になったので、もう早く群衆を解散させてください、と願ったのですが、イエス様は「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。

 

 そんなことはできない、と弟子たちは言ったのですが、イエス様は「パンはいくつあるのか」と聞いて、パンは五つ、魚は二匹ありますと弟子たちは答えました。すると、イエス様がそのパンと魚を、お祈りをして裂いて分けられると、5000人の人たちがみんな食べて満腹をすることができた、そういう話です。

 

 こうしたことが現実にあったと考えることができるでしょうか。私たちの常識的な感覚でいえば、そんなことは現実にはあり得ない、と考えるのが普通であります。

 

 しかし、聖書には、この話、こうしたパンを大勢に分ける話が、四つの福音書すべてに載っています。ひとつだけでなく複数載っている福音書もあります。そうして考えますと、この5000人の食事の話は、どの福音書にとっても大切であって、抜かすことのできない重要な物語であるということがわかります。すると、この話を、実際にこんなことはありえない、と言って読み流すわけにはいきません。そこで、いろいろな解釈をすることになります。

 

 私が今までに読んだ解釈のなかで、興味深いと思った解釈は次のようなことです。この場面では、たくさんの人がいて、みんなが食べる物がないと思っていた。しかし、そのなかで1人の少年が、自分の持っていたパンと魚を分けます、といって出した。すると、それを見ていた大人たちが恥ずかしくなって、実は私たちも持っているのです、といってそれぞれが持っていた食べ物をみんなが出した。それをみんなで分け合って食べると、5000人がみんな満腹することができた。そのように解釈する説教があるのです。

 

 これはなかなかいい解釈だなあ、と思います。というのは、この現代世界に生きていて、食べるものがないというのは世界的な問題なのですが、本当は隠し持っているもの、自分のために抱えこんでいる物を出すことによって、その第一歩はみんなが食べるには足りない、そういう意味で滑稽な、あるいは無謀なことであるにもかかわらず、1人がそうすることで、みんなでその気持ちと実践を共有したときに、世界に食べ物が行き渡る、そういう一つの物の考え方として理解するとき、この解釈は素晴らしいものだと思います。現実世界の中で、取り得る私たちの生き方という意味で、耳を傾けるに値する解釈だと思います。

 

 しかし、こうした解釈だけがすべてかというと、そうではありません。というのは、そのように解釈すると、これは奇跡ではなくなってしまうからです。これは奇跡ではなくて、現実に人間ができることだ、ということになれば、それは信仰ではなくなるのですね。信仰の話ではなくて、倫理・道徳の話になるのです。すると、聖書としてこの話を読む意味はどこに行くのか、という問いが生まれてきます。

 そういう意味で、この箇所はあまり、現実にはこういうことだったのか、という納得できる解釈を探すというよりも、この物語を通して神様は私たちに何を伝えようとしているのだろうか、ということに集中することが一番大切であろう、ということを思わされます。では、この箇所は信仰を伝える物語として、私たちに何を伝えているのでありましょうか。

 

 私は今回、この箇所を何度も読みました。そして読むたびに思いました。私、この箇所を、今まで何度も何度も読んできた、そして何度も何度も説教してきた、そのたびに苦労してる、と。この箇所のことは、現実にはありえないとしか思えない、しかしそれでも意味があるとしたら、それは何であるのか、と考えました。そして、私の心が麻痺しているのでしょうか、この箇所を読んでも、特に何も思わないという時間が続きました。

 

 五つのパンと二匹の魚、という言葉を聞いただけで、もう頭の中で紙芝居が出てくるかのような、もうわかっている話、結論までわかっている話、つまり、本当のことはわからないけれど、しかし神様はきっと……みたいな、そんな結論まで浮かび、それを説教で言うのかな……などと思うと、もう考える気もわいてきません。夏の暑さもあったのでしょうか、何にも頭に浮かんできません。

 

 しかし、この箇所を読んだときに、ふと「この話はいいなあ」と思った瞬間もありました。それは、自分のおなかがすいていたときでありました。そうなんです。もうご飯を食べてしっかり栄養を取ったあとにこの箇所を読んでも、特に何も思わないのです。聖書の中によくある話としか思わないのです。けれでも、自分がおなかが減っているときに、この箇所を読むと、「パンと魚か……」と何か思うところがあったのです。それは、私も食べたい、私は食べることを必要としている、という感覚です。そういう感覚があるか・ないかで、聖書を読むときの感じはずいぶん変わってきます。

 

 さきほど、説教の初めに、聖書を読むことは、パラリンピックを見るということと、少し似ているのではないかと申し上げましたが、その理由はここにあるのです。つまり、自分の気持ちがそこに入るかどうかで、見ていて全然変わってくる、ということです。ルールも見所も何もわからない、最初はそう見えたパラリンピック、でも見ているとだんだんとわかる、そこに気持ちが入ってくるのです。聖書もそうです。おなかがすいた気持ちでなかったら、この五つのパンと二匹の魚の話、その意味がわからないかもしれません。

 

 この聖書箇所を読むときに、私たちがまず目を引かれるのは、5000人という非常に多くの人に食事を分け与えた、という話であり、そのことが、人間の頭で考えると本当のこととは到底考えられない奇跡であるということ、そのことにまず目が行きます。そしてそこだけで考えていますと、やはりこれはわからない話なのですね。こういうことが本当にあれば、それは素晴らしいのだろうけれども、実際にこんなことをする力が世の中にあるとは思えないのです。

 

 昔、確か「イエスの生涯」という題名だと思いますが、イエス様の生涯を描いた映画がありました。私が子どものときに、親と一緒に見ていたのですが、この5000人の食事の物語の場面の最初が出てきたとき、あっ、あのたくさんの人にパンが渡る話だ、これはこのあとどうなるのだろうか、とワクワクしていました。

 

 その映画では、この聖書箇所をどんな風に表現していたかというと、イエス様がパンを裂いてお祈りをする場面までは普通に続いていました。そのあと、すぐに場面が切り替わって、たくさんのパンがたくさんのカゴに入れられた場面が出て、それが大勢の人に配られていく場面になりました。つまり、パンが増えるシーンというのは撮影されていなかったのです。それは聖書にそのシーンがないからですが、子どもの私はちょっとガッカリしたのを覚えています。そこが知りたいのに、そこが描かれなかったら、一体何なんだろう、と子ども心に思った記憶があります。

 

 今、この聖書箇所を読むときに、皆さんにどこか似た思いがあるのではないでしょうか。どうやってパンを増やしたかがわからないのに、この話の意味がわからない、と。しかし、この箇所を改めて読んでみますと、私は気がつきました。この箇所で重要な役割を果たしているのが、もちろんイエス様であり、また群衆なのですが、もう一方で、弟子たちの存在が非常に重要な役割を果たしています。この弟子たちの心に着目してみます。弟子たちは、ここで何をしていたのでしょうか?

 

 本日の箇所を見ますと、こうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちがおこなったことや教えたことを残らず報告した。」

 

 イエス様から弟子たちは、様々な町や村に、二人一組で遣わされ、神の国の福音を人々に伝えて、そして帰ってきていたのです。とても疲れていたでしょう。

 

 「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」

 

 食事もするひまがなかったので、このとき弟子たちはお腹がペコペコだったのです。だから、休憩するためにわざわざ舟に乗ってその場を離れたのです。

 

 「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」

 

 舟のほうがスピードが遅かったということでしょうか。とにかく人々がイエス様たちに対して先回りしていたというのです。

 

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」

 

 ここまでのところで、イエス様の弟子たちが、休憩する時というものが与えられてないことがわかります。舟の中で休憩していたのかもしれませんけれども、それはホッとする場面ではなかったと思います。人里離れた所に行って、自分たちだけで食事をしたい、ゆっくりしたいと思っていたのに、イエス様は岸辺につくとすぐに教え始められた、これでは弟子たちが休む暇がありません。食事をする暇もありません。すると、次にどうなったのか。

 

 「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分でまわりの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。』」

 

 弟子たちはここで、もうたまりかねていたと思います。もう夕方だ、こんな人里離れた所まで群衆が追いかけてきたよ……。群衆を解散させなかったら、この人たちも食べるものがなかったら困るだろう、と。しかし本当は、群衆たちが困るだろう、という以前に自分たちが腹を減らしていたのです。しかし弟子たちはそうは言いませんでした。みんながお腹を減らしていますから、というのです。

 

 そうした弟子たちにイエス様は言います。「あなたたちが彼らに食べ物を与えなさい」と。弟子たちは、すかさず答えます。「わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきてみんなに食べさせるのですか。」200デナリオンというのはお金のことです。1デナリオンは当時、ぶどうを収穫する季節労働者の1日分の賃金です。1日1万円とすると200万円、5000円とすると100万円、それぐらいのお金を必要とする、5000人ぐらいの食事ですから、それぐらい必要だったのでしょう。それだけのパンを買ってきて食べさせることなんかできません、と弟子たちは言います。

 

 弟子たちの心中は、もうこのとき腹を立てていたのではないかと思います。自分たちが食べていなくて、休憩もできなくているのに、「あなたたちが食べ物を与えなさい」とはどういうことでしょうか? そんなふうに腹を立てていたと私は想像します。自分たちだって食べるものがちゃんと取れていないのに、その私たちが人のために食べ物を分け与える? 買ってくるのか? そんなお金もない! そういう不満が、イエス様に対して突き刺さるように、弟子たちの心の中にあったと思います。

 

 「イエスは言われた。『パンはいくつあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』」

 

 他の福音書では、一人の少年がこれらのパンと魚を持っていた、と記しているものもあります。しかし、マルコによる福音書のここでの話では、誰が持っていたかということは書いてありません。ですから、パンも魚も、弟子たち自身のものであったと思われます。

 

 そして、次にこうあります。「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンのくずと魚の残りを集めると、十二のかごに一杯になった。パンを食べた人は男が五千人であった。」

 

 このように締めくくられています。当時は人の人数を数えるときに、男性だけを数えるという習慣でありました。ですから、女性や子どもたちもいれば、その人数に入っていません。そうした人たちも数えたならば、ここにはもっとたくさんの人がいた、ということが示されているのです。

 

 しかし、その人たちにパンと魚を配ったら、みんな満腹して、その残りが一杯残った。その残ったものを集めると、十二のかごに一杯になった。十二とは聖書では完全ということを示す数字であります。残ったものを集めると完全に満たされていた、つまり、誰も取り残されなかった、すべてが完成した、という、まさに神の国の出来事として、この箇所は描かれているのです。

 

 弟子たちは、この箇所において空腹でありました。ものすごく空腹だったと思います。自分たちも食べられないのに、このたくさんの人たちが本当に腹を減らしたらどうなるか、そんなふうに考えて、この群衆を解散させてくださいと言ったのです。

 

 しかし、イエス様は、そのわずかの、五つのパンと二匹の魚を分けて配っていかれました。すると、すべての人が満腹したのです。このすべての人の中に、弟子たちも入っています。弟子たちは、自分たちも食べられないのに、と思っていたのですが、イエス様がみんなのために分けて下さったら、自分たちも満腹したのです。弟子たちは、もう言うことはありません。

 

 今日の聖書箇所の話は、私たちに向かって何を伝えたいのでありましょうか。私はこう思いました。自分たちが持っていると思っていたもの、今日の箇所において、弟子たちにとっては五つのパンと二匹の魚、それがイエス様によって打ち砕かれたのです。自分たちの持っていると思っていたものが、イエス様によって打ち砕かれたのです。5000個以上にバラバラに、木っ端みじんに打ち砕かれたのです。そして自分たちの手を離れ、打ち砕かれて、イエス様の手によって配られていったときに、伝道の満腹ということが起きたのです。神の国を伝える伝道において満腹したのであります。

 

 空腹の中で、自分自身が持っている本当にわずかなもの、自分の分と思っているわずかなもの、それが打ち砕かれることによって、その打ち砕かれ、木っ端みじんにされ、バラバラにそれが配られていくときに、神の国が人々に行き渡り、その中で自分もまたお腹いっぱい、それをいただくことができる、そのような神の恵みを、今日の箇所は伝えているのであります。

 

 秋を始めるにあたって、このことを大事に受け止めていきたいと願う者であります。

 

 お祈りいたします。

 天の神様、暑い夏、そして大雨が続き、この気候の変化のなかで、私たち一人ひとりの体調や、また気分的なものも含めて、弱って過ごされた方も多いのではないかと思います。また、コロナ禍が終息せず、いよいよ拡大する一方であると報道されるとき、本当に気持ちが滅入ります。そんな中、私たちは秋を迎えました。人間の思いと関わりなく、神様の側が、素晴らしいこれからの日々を用意してくださっていることを信じ、私たち一人ひとりの思いを神様に聞いていただいて、そして一人ひとりの弱さも強さも打ち砕かれて、神様のため、また、みんなのために用いられ、そのことによって私たち、みんなで満腹できますように心からお願いいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

                                       

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「愛されてこそ民になる」

 2021年9月12日(日)礼拝説教

 聖 書  ローマの信徒への手紙 9章 19〜26節
                      (以下、新共同訳より。改行して配置)

 

 ところで、あなたは言うでしょう。

 

 「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。

  だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

 

 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。

 

 造られた者が造った者に、

 「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

 

 焼き物師は同じ粘土から、

 一つを尊いことに用いる器に、

 一つを尊くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

 

 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、

 怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、

 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、

 ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

 

 神はわたしたちを憐れみの器として、

 ユダヤ人だけからでなく、

 異邦人の中からも召し出してくださいました。

 

 ホセアの書にも、次のように述べられています。

 

 「わたしは、

  自分の民でない者をわたしの民と呼び、

  愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。

 

  『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、

  彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 

 ………………………………………………………………………………………………………
 

(以下、礼拝説教) 

 

 最近の京北教会の礼拝では、マルコによる福音書、そしてローマの信徒への手紙、それから旧約聖書の三つの箇所を、毎週の礼拝で順番に読んでいます。そのことで聖書のメッセージを深く皆様と一緒に聴いていきたいと願っています。

 

 今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙9章です。ローマの信徒への手紙は、手紙という題名が付けられていますが、全体が一つの神学論文のような内容になっていて、使徒パウロが信仰していたキリスト教の考え方が、論文のような形でずっと記されているものであります。今日の9章はその流れの中の一部分であります。

 

 今日の箇所の前のところ、9章前半には、何が記されているかというと、そこには、神様が人を選ぶ、ということについて、それが不公平ではないか、という考え方に関することをパウロは語っています。たとえば、神様はイスラエルの人たちを選んで、聖書の民として神様は愛されたはずだった、ところが、イスラエルの人たちは、本当の神様への信仰から離れて、不信仰に陥り、その結果、他の国から侵略されて苦しむことになってしまった、そうした歴史があります。

 

 すると、神様が選んだはずの人たちが、なぜ不信仰に陥ったのか、そして、なぜ侵略や戦争のもとで苦しむのか、そうした疑問というものが生まれてきます。その疑問の中で、たとえば、ある人によれば、結局この人間世界のことはすべて神様から決めていて、私たち人間はそれに逆らうことができない、だから、この現実はしょうがないのだ、と考える人たちもいたのであります。

 

 そうした、神様の不公平とか、あるいは矛盾と思えることに対する疑問があって、そのあとに今日の箇所が記されている、という流れです。

 

 以上のことを前提にして、今日の箇所を読んでいきます。

 「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」

 

 この言葉は、先ほど言いました、神様がこの世界のことを全部決めているのだから、結局人間は逆らえないんだ、しょうがないんだ、という考え方のことを指しています。そして、この世界のことは、神様がすべて自分が決めた通りに進めている、だから神様は満足しているはずなのに、それなのに、なおも、神様はなぜ人間を責めるのか、さらに人間を苦しめるのか、ということです。

 

 この世界の中で、神様はすべて自分の好きなようにしているのに、自然災害や戦争や、貧困や飢饉や、いろんな苦しみが起こる。一体なぜそんなことが起こるのか。これも全部、神の御心なのか、じゃあ、逆らいようがない、しょうがないや、という、そういう捨て鉢な心であります。

 

 そうした言葉に込められている心は、一見信仰深い言葉にも見える言葉に込められている心は、実は神様に対する強烈な不満とか、神様に対する怒りが、その言葉にこめられているわけであります。

 

 「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか。」そう言って、この世界に起こる悲しいこと、つらいことを、これは神が考えていることなのだから、しょうがないじゃないか、という捨て鉢なことを言う心なのです。それに対して、使徒パウロが答えるという形で以下、続きます。

 

 「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」

 

 パウロはこのように言っています。この世界というものは確かに神様が造られた。それは焼きもの師が同じ粘土から様々な器を造る、それと同じであると。そしてあるものは尊いことに用い、あるものはそうでないことに用いる権限を持っていると言います。そういう意味で、この世界に起こることは、神様がすべてなさっている、という考え方を使徒パウロは持っています。

 

 しかし、パウロが、先ほど言いました、神様に不平不満を言う人たちと違うのは、神様が私たちをそのように造られたのだから、神様に対して、どうして私をこのように造ったのか、と口答えしてはいけない、と考えている所であります。パウロは、この現実には、人間の目には見えなくても、人間の心にはわからなくても、神様の御心がそこに隠されているということを信じて生きていく、ということをここで言っているのであります。 

 

 つまり、表面的に見れば、世界中に不公平が満ちています。矛盾が満ちています。けれども、だからといって、ああ、この矛盾も、あの不公平も、みんな神様が造ったんだからしょうがないじゃないか、と捨て鉢になるのではなく、そのようになっている世界の中で、なおかつ希望を持って神を信じて、新しい世界を造っていく、そこにこそ神様の御心から現れる、とパウロは信じているのであります。

 

 次にパウロはこう言います。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」

 

 神様は元々、人間に対して怒りを示そうとしておられました。そして、この人間世界を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼすことができました。しかし、その人間の現実、人間の罪深い姿に、神様ご自身が耐えて下さり、そして、ご自身の怒りに代えて、大きな恵みを人間に与えようとしてくださっているのだと、パウロはそのように語っています。

 

 そして次に以下のように語っています。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人だけからでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」とパウロは言っています。

 

 聖書の民と呼ばれたイスラエルの人たち、ユダヤ人だけでなくて、世界中のすべての人のことが言われています。パウロたちユダヤ人からすれば、異邦人、外国人と呼ばれていた、世界中のすべての人たちもまた、神様によって召し出された、とパウロは言っています。ユダヤ人だけが救われるという信仰ではなくて、世界のすべての人たちが救われる、という、聖書からの新しい信仰が生み出されている、そのことをパウロはここで語っているのです。

 

 そして最後に、旧約聖書のホセア書から引用して、次のように言っています。

 

「ホセアの書にも、次のように述べられています。『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 

 ここでは、旧約聖書のホセア書の2章から二箇所が引用されています。元々のホセア書では、この言葉が置かれた文脈は、神様に対して不信仰であったイスラエルの人たちが、神様から愛されるようになった、つまり、滅ぼされても仕方がない、その人たちが神様から愛されるようになった。そのことが書かれているのであります。その言葉をパウロは引用して、神の愛というものは、元々は神様から愛されないはずの者たち、神の民と呼ばれるはずがない者たちが、神様から愛される民と呼ばれる、そこに神の救いがある、とパウロは語っているのであります。

 

 今日の箇所を読んで、皆様はどのようなことを思われますでしょうか。

 

 私は、この箇所を読むときに思いますのは、この、焼き物師が粘土から器を作るという、このたとえのこと、このことをいつも、私はいろんな意味で心に思い浮かべるのであります。「焼き物師は同じ粘土から、一つを尊いことに用いる器に、一つを尊くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と言われています。つまり、人間をどう造るか、それは造り主の権限ではないかと言われています。だから、どうして私をこのように造ったのかと、造られた者が造った方に対して言えるでしょうか、それは神に対する口答えだ、それをするあなたは何者か、とパウロはここで人々を叱っているのであります。

 

 けれども、私はここの箇所を読むときに、繰り返し思うことがあるのです。それは、ここでパウロが言っている言葉は、ちょっと冷たいなあ、ということなんです。とはいえ、もし子どものときに教会学校で、今日の箇所の言葉を聞いていたら、そんな風に、この言葉は冷たいなあとは思わなかったかもしれません。すべてのことは神様が決めている、どの人間も神様が造られた、不平等に見えて、不公平に見えるけれども、みんな愛されているんだ、と素直に読んでいたかもしれません。

 

 しかし、人間というのは、なかなかそう無邪気に考えることができない、という面もあるのですね。子どものときは単純にこうした考えを受け入れることができたとしても、だんだん成長してきて、10代、20代と大人になっていくときに、やはり思うのです。人間は不公平ではないのか、生まれつきのいろいろな自分の能力、身体能力とか、心の成長、家庭環境とか、社会の環境、世界的に見れば国や地域による違い、いろんな違いというものがあります。生まれつきの違いというものもあります。社会による違いというものもあります。

 

 つまり、自分の力でどうすることもできない条件、いろんな環境というものがあって、その中で人間は生きています。その中で人間は思うのです。やっぱりこの社会は不公平ではないのか、矛盾があるのじゃないのか、と。私自身もそういうふうに思うのです。どうして私はこんな人間なのですか、どうして私は、と神様に向かって言いたいときがあるのです。しかし、そう言えば、パウロから叱られるのでしょうか? 神に口答えするとは、あなたは何者か、と。

 

 言われてみたら、そうなのかもしれません。けれども、どうしてもそこに、宗教の理屈としてはそうかもしれないけれど、生身の人間としての私は、ちっとも納得していないよ、という、もう一つの私の本音というものが、今日のこの箇所を読むときに、心の中でムクムクと熱くなっていくのを感じるのですね。

 

 それは、いつもそうだ、というわけではないのですが、自分で自分の存在に苦しむとき、自分で自分を哀れんでいるような時には、特にそうなのです。私、なんでこんなんなんだろうと。そのときに、これも神の御心だ、と感じられるのは、心が健康なときですね。しかしそうでないときはどうしましょうか。私は今日の箇所を読むときに、いつもそうした心の揺れを感じます。今日の礼拝説教の聖書箇所としてここを選んだときに、そうした自分自身と向き合う、ということが私の内面において一つのテーマでありました。

 

 パウロはこの箇所で、最終的に何が言いたいのでありましょうか。この社会の中にある矛盾、差別、生まれつきの条件、そうした違いによって生まれてくる不利益、それをどう考えたらよいのでしょうか。あれもこれも、神様がなさったのだから我慢しろ、と言われるのでしょうか。そうは言えないと思います。

 

 9.11と呼ばれる20年前に起こったテロ事件のことを、最近のマスコミでは振り返って繰り返し報道しています。今アメリカでどうなっているか、アフガニスタンでどうなっているか、報道されています。多くの命が失われた、本当にあってはいけない事件でありましたが、その背景には、世界の中で、文明の衝突と呼ばれるような世界の中での様々な不均衡がある。差別・抑圧の問題がある。そうしたことを、毎年9.11の日がやってくる度に、繰り返し繰り返しテレビや新聞などの、様々なニュースで聞かせられ、考えさせられてきたと思います。

 

 この世界で起こっていることは、すべて神様が決めていることなのだから、もう仕方がないことなのでしょうか? そう考えることは、あたかも信仰的な考え方に見えて、そうではなく、結局、社会の中で起きていることを、すべて神のせいにして済まそうとする、捨て鉢な心であり、不健康な心であります。

 

 パウロが叱りつけているのは、まさにそうした、人間のひねくれた不健康な心であります。現実の矛盾を、神様のせいにすることによって、これはしかたがないんだと、世の中のことを済ませようとする、その捨て鉢な思いは、実は、こんな自分でしょうがないじゃないか、いいじゃないか、という自分についての、うぬぼれと言ったらいいのでしょうか、言わば、あきらめ半分なうぬぼれ、というような、不健康な心というものが人間にはあるのです。

 

 パウロ自身が、その思いに苦しんで生きていたのではないでしょうか。かつては熱心な律法学者として、生き生きと活動してきたパウロです。クリスチャンを迫害して、旧約聖書の律法を守ることで人間は神に救われる、と堅く信じていたパウロ。そのパウロが、ある日突然目が見えなくなりました。そのとき初めて律法を守るということができなくなり、そのときにパウロに襲った暗闇のような絶望の中で、自分が迫害してきた相手である、イエス・キリストの言葉がパウロに聞こえてきたのであります。

 

 その後、パウロは再び目が見えるようになりましたけれども、その後も何らかの病気または障害を負っていたのではないかと考えられています。自分が負うことになったハンディ、それも神様の御心でありましょう。けれども、だからしょうがないんだ、とパウロは考えるのではありませんでした。

 その与えられたハンディの中で、神様の御心というものを懸命に尋ね求めました。そして、イエス・キリストの十字架が、この自分のためのものであったと信じたのです。イエス・キリストがこの私自身の罪を背負って死なれたこと、それは神の子がすべての人間の罪を一身に背負って死なれたことであり、そのことによってすべての人がゆるされた、だからイエス・キリストの十字架の死の出来事は、罪のゆるしの出来事である、とパウロは信じるようになったのであります。

 

 そして、十字架の死の後、主は三日後によみがえり、天に挙げられ、主を信じる者に神様から聖霊が与えられる、その聖霊によって、私たちは主イエス・キリストと共に生きることができる、そうした信仰を持つようになったのであります。

 

 パウロがそのように、絶望の中でイエス・キリストに出会い、そこから、それまでの自分の歩みを180度転換して鮎読み始めたときに、初めて今日の箇所のようなことが言えたのです。「造られた者が造った者に、どうして私をこのように造ったのか、と言えるでしょうか」とパウロがいうとき、ここでパウロが叱責していることは、自分の境遇に不満を言うな、と言っていることではありません。

 

 自分の境遇に不満を持つ、それは当たり前なのです。それは当たり前なのですが、そこからの結論として、これは神がしたことだからしょうがないじゃないか、と神に責任を負わせて済ませようとする、そうした捨て鉢な心に行くのではなくて、神様はこの先に恵みを用意してくださっているのだと。神は、滅びようとしている私たちを、滅ぼさずに、愛して下さって、生き残らせて下さっている、だから、この先必ずいいことがある、そのことを信じて健やかな心で歩む、ということが大切だとパウロは言っているのです。

 

 旧約聖書のホセア書を引用して、パウロはこう言っています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 

 ここにあるのは、この世の中において滅んでも仕方がなかったような人間が、滅びずに生き残らせていただいている、それは神様が、滅びるはずの私たちを愛して下さったからだと、そのことを言っているのであります。

 

 この箇所でパウロが言っていることは、現代の日本社会にも関わることとして考えるならば、宗教の役割に対する批判というものがこめられているのです。宗教というものは、いろいろな考え方がありますが、この社会の現実の中で宗教ということを考えていくと、必ずどこかで矛盾につきあたると思います。

 

 キリスト教でいえば、神様は世界のすべての人を愛して下さっている、はずなのでありますが、でも現実には不幸が一杯起こるではありませんか。神様は平和を願っておられる、はずなのですが、戦争が起きるではないですか。しかもキリスト教主義のような国がそうではないですか。そのように考えると、まさに宗教には矛盾が多々あります。そして、世界には不公平が満ちています。その中にあって、一体どう考えたらいいのでしょうか。

 

 そこで、この不公平に満ちた世界は神が造っているのか、じゃあ、しょうがないんじゃないか、神には逆らえないからな、と言って社会の現実を肯定していく、そのように言う捨て鉢な心を生み出していくとしたならば、宗教というものは真に害悪になっていくのです。つまり、人の心にあきらめさせるように力を働かせ、そして世の矛盾を神のせいにすることによって、見て見ぬふりをする、そうしたことを人間にさせるならば、宗教は害悪なのであります。そのような役割の宗教であってはならない、というパウロの強い確信が今日の箇所に現れています。

 

 すなわち、キリスト教という宗教の中には、宗教というものが持っている矛盾を突き、その問題点を明らかにし、それを超えていく力がある、ということをパウロは信じているのです。

 

 私自身はキリスト教という宗教を信じていますし、素晴らしいと思っています。しかし、宗教である限り、そこに必ず、その宗教をこの世において適用したときに矛盾が生じます。答えられないことが出てきます。そのときに、いや、これは神が決めたからしょうがないんだ、と言い張って現実から目をそむけるのではなくて、そんな宗教のあり方自身を、神様が壊して下さいます。イエス・キリストによって、イエス・キリストの十字架と復活によって、宗教というもの自身が、一度死んで、そしてもう一度、神様によってよみがえらせていただく、そのようなダイナミックな神様の御心というものがある、とパウロは信じているのであります。 

 

 人間は、神様に対して愚痴を言っている間は、神の民となることができません。神なんて、神なんて、不公平じゃないか、と生まれつきのこと、社会のこと、いろいろなことで不平不満を言い、この世は不公平だ、神が造ったこの世界は差別に満ちている、そんなふうに言っているだけならば、私たちは神の民になることはできません。そうではなく、この不公平な現実の中において、もういちどよく考えてみてください、とパウロはここで願っているのです。

 

 私たち一人ひとり、滅ぼされてもしょうがないような小さな者です。くだらない存在だと言ってもいいでしょう。しかし、そんな小さな、くだらない、愚痴ばっかり言っている、自分のことばっかり考えている、利己的な、こんな私たち一人ひとり、滅ぼされたって仕方が無いのに、それでも神様は私たちを愛してくださる。神様がもう一度、私たちをつかみ取って下さるのです。

 

 「『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」————それは、神に愛されるに値しないものが、神によって生ける神の子と呼んでいただける、ということであります。愛されなかった者を神様が愛される、そのことによって、私たちは神の民にしていただけるのであります。世界中、すべての人がそうなのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちは日々、与えられた場にあって懸命に生きようとしていますが、その中で、できないこと、自分の限界を感じること、自分の小ささを思い、やるせなく思うときもあります。その中にあって、滅んでも仕方がない私たちが、隠された神様の御心を訪ね求める、その道へと導かれていることを心から感謝いたします。9.11以降、世界は良くなったのか、悪くなったのか、悪くなったとしか思えないような、その現実を見せられる、その世界に私たちは生きていますが、しかしその中にあって、神のせいにせず、神様から希望を与えられて、平和を造り出す者とならせてください。世界中のどの人も、神様によって平和のともし火を与えられて、その与えられた状況の中で、自分ができることをしていくことができますように、心よりお願いをいたします。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

                                        

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「光や空、草にも愛の言葉を」

 2021年9月19日(日)礼拝説教

 聖 書   創世記 1章 1〜13節   (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 初めに、神は天地を創造された。

 

 地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、

 神の霊が水の面(おもて)を動いていた。

 

 神は言われた。

 「光あれ。」

 こうして光があった。

 

 神は、光を見て、良しとされた。

 神は光を闇と分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

 神は言われた。

 「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」

 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。

 

 そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。

 夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 

 神は言われた。
 「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」

 

 そのようになった。

 神は乾いた所を地と呼び、

 水の集まった所を海と呼ばれた。

 神はこれを見て、良しとされた。

 

 神は言われた。

 「地は草を芽生えさせよ。

  種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」

 

 そのようになった。

 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、

 それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。

 神はこれを見て、良しとされた。

 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

 

 ………………………………………………………………………………………………………

 

(以下、礼拝説教) 

 

 最近の礼拝では マルコによる福音書、そして使徒パウロの手紙、さらに8月の末からは、それらに旧約聖書を加えて、それら三つの箇所を毎週の礼拝で順番に読むことにしています。本日は旧約聖書の一番最初にあります、創世記1章1〜13節を選ばせていただきました。

 

 ここには天地創造、そしてそこから人間創造へと至る、聖書の一番最初にあたる物語が記されています。こうした天地創造、人間創造の由来を伝える物語というものは、旧約聖書だけにあるものではなくて、この世界の一番最初がどのようなものであったか、ということを伝える伝説、伝承と呼ばれる言い伝え、そうした物語は、世界各地にあります。中近東、メソポタミア地域において、そうした世界の始まりを語る神話というものが、旧約聖書の成立よりも以前から伝えられていたことが、考古学者、聖書学者などの研究によってわかっています。

 

 今日の箇所である、旧約聖書の創世記が、いつごろどのようにして文書として記されるようになったかというと、それはおそらく紀元前6世紀ごろのことであったと考えられています。それは、そのころのイスラエルの人たちが、バビロニアという大きな国に侵略をされて支配され、国がなくなってしまい、そしてイスラエルの中で中心的な役割を果たしていた人々が、バビロンの都に捕囚(ほしゅう)として、捕らわれの身で連れていかれた、そのような苦しい時期に、旧約聖書の最初に入っている部分、モーセ五書とも呼ばれる、創世記、出エジプト記申命記などの主要な文書が編集されたのであろうと考えられています。

 

 それは、自分たちが生きる国が戦争で滅びた、そして自分たちが住んでいる所を追われて、まったく別のところに連れて行かれたという、その、かつてない苦しい経験を人々がした中で、自分たちは一体何者であるのか、という、その問いに自分たちが苦しむことになった、その中で古代から語り継がれていた様々な物語を文書にしていった。それが創世記であったり、旧約聖書の最初のほうに収められた重要な文書であるということです。

 

 すなわち、そうした物語は、なんとなく昔の言い伝え、物語を残しておこうとして書かれたのではなくて、英語でいえばアイデンティティといいますけれども、自分たちは何であるのか、自分たちがどういう存在であるのか、という、自分で自分を説明するための、自分の中心にある意味をはっきりさせる必要が出てきた、その苦しい現実の中で、自分たちがどこから来て、今何を考えているのか、自分たちの本質はどこにあるのか、ということを、古代の言い伝えを元に文書化していったと考えられています。

 

 そういう意味で、本日の聖書箇所も、すべての内容が聖書のオリジナルということではなくて、中近東、メソポタミア地域に流布していた物語を素材として用いていることは確かであります。けれどもイスラエル人たちは、そうして流布していた物語を、ただ寄せ集めて自分たちの物語を作ったわけではありません。

 

 自分たちが今生きているということは、神様の御心によるのであって、その神様の御心が自分たちをどのように導いてくださったか、ということを、しっかりと後世の人たちに語り伝えるという、その目的のために書いたのであります。

 

 つまり、単に歴史を伝えるためではなく、自分たちの信仰を伝えるために書き記したのであります。そういう意味で創世記の物語は神話的な話です。天地創造、人間創造の話は神話的な話です。しかし、この神話的な話を編集する、まとめるにあたって大切であったのは、神様に対する信仰ということであります。

 

 ではその信仰というものは、具体的に、どんなメッセージになっているのでありましょうか。

 

 そのことを今日の箇所から学ぶ前に、この、自分たちの過去を知る、ということがどういう意味を持っているかということを、現代という時代に即して少し考えてみます。先ほど私が申し上げましたような、自分たちの国が滅ぼされて大変な目にあった、そうした時代の中で、自分たちの過去を文書に書き残す必要に迫られたという話をいたしました。

 

 しかし今、この日本社会に生きている私たちにとって、そうした切迫感といいますか、そうした自分たちのアイデンティティは何だろうか、とか、そういうことを考えるような切迫した感じは少ないのではないでしょうか。そういう意味で、この創世記を記した人たちの心というものは、私たちから、ちょっと遠いように感じられるかもしれません。

 

 しかし考えていくと、案外そうでもないのですね。それは、たとえば現代ではどういうところに現れているかと言いますと、時々テレビでやっていますね。どこそこの衛星にロケットが近づいている、宇宙に旅をしているロケットの何とか、というようなニュースです。調査する機器を載せたロケットが宇宙の果てまで飛んでいくような、そしていろいろな惑星や衛星や浮遊する物体の近くに近づいて写真を撮ったり、宇宙に浮遊する物体の近くに行って、そこから砂を取ってきた、とか、そうしたことがリアルに写真で動画で出てきて、私たちはちょっとドキドキ、ワクワクしたりします。

 

 ああいう調査はものすごくお金がかかっていますが、何のためにやっているかというと、私たちが生きている地球とか宇宙は、過去どうやってできたかを知ろうとしている、世界中の科学者たちが知ろうとしているわけですね。それはもう、あらゆる技術を投入して、国の予算の大きな金額をそこに投入して、やろうとしています。一体なぜそんなことをするのでしょうか。

 

 それは、もちろん宇宙における技術の競争であったり、そうした戦略もあるのですが、その一方で、この宇宙がどんなふうにできているのか、ということを知ることは、今生きている私たちはどういう存在であるかということを知る、そのことが私たちが今を生きる力になる。科学的な分析ということを含めて精神的な意味でもそうだ、という、これはものすごく強力な欲求としてあるわけですね、この現代において。

 

 そのことを考えてみると、今からはるか数千年前に、イスラエルの人たちが直面していた、過去を語り継いでいく、このものすごい努力というものは、現代の世界中の科学者が情熱を傾けている、この宇宙への情熱ということに似ているかもしれません。そのように考えたときに、過去を正しく知る、という、そのことは、人間にとって根源的な欲求であると言ってもよいと思います。

 

 そういうことも踏まえて今日の箇所を読んでいきます。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。」とあります。

 

 ここにある神の「霊」という言葉は、もともとのヘブライ語を見ますと、「風」とも「息」とも訳することができます。風、息、あるいは霊。そういうものが水の面を動いていた。このときに、地はドロドロとしたものであり、水と土がまざりあって動いている、つまり何の形もない、しかしそこに何かがある、という状態でありました。

 

 その状態のときに、次の言葉があります。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は、光を見て、良しとされた。神は光を闇と分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。光あれ。こうして光があった。」

 

 このころの日にちの考え方は、夕方、日が沈むというところが一日の区切りでありました。そこから新しい次の時間が始まると考えるのです。世界の最初というものは、何も形ないものがただドロドロと動いていて、その上に神様の風が、息が、霊が、動いている、そのように世界が表現されて、創世記は始まっています。そのドロドロとした世界に神様の言葉が響きました。「光あれ。」こうして光があった、とあるように、神の言葉はそのまま物事を形作る、世界を変えるものでありました。そして、神様はその光を見て良しとされた、とあります。

 

 次に言われます。
 「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」

 

 よく、創世記の最初で「光あれ」と神様が言われた、という言葉は多くの方に覚えられていますが、では、その次に何と言われたか、と聞かれると、ちょっと答えられない方も多いのではないでしょうか。「光あれ」と言われたその次には、「大空あれ」と神様は言われたのです。しかも、「水の中に大空あれ、水と水を分けよ」と言われました。

 

 この言葉は、現代の私たちから見ると不思議でありますけれど、水というものはドロドロとして土と混ざっていたのであり、土と一体化した泥の中にあるもの、それが水だったのです。その水を空の上と下に分けるということは、その間に空を造るということであり、そしてその空よりも上にほうに行った水は、そこから神様が天の門を開くとそこから雨が降ってくる、そういう働きをするようになったと考えられていたのであります。

 

 そして、その下のほうの水は、まだここでは土と合わさってドロドロのままであります。そのあと、その下のほうのドロドロの水が、陸地と、水が集まる所である海に分けられて、世界が造られていきます。

 

 ですから、最初にまず光が造られ、その次に空が造られたということであります。そして、その空を天と呼んだとあります。天は神様がおられるところという意味です。

 

 次に言われます。

 「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」

 

 ここで陸地と海が分かれました。さらに言われます。

 「神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」

 

 このようにあります。陸地と海が分けられ、そして、分けられた陸地のほうに「地は草を芽生えさせよ」と神様は言われ、そして草と種を持つ実の果樹、それらを神様は生えさせてくださいました。それぞれに神様の言葉があり、そこに即座にそれらが現れてそうなった、ということを創世記は記しています。

 

 天地創造の一週間の半分までを、こうして今日、皆様と共に読みました。このような本日の創世記の箇所から、今日、この現代社会を生きている私たちは、何をメッセージとして与えられるのでありましょうか。

 

 私は、今日の箇所を読んで、このように今日の箇所の意味を、まとめさせていただくことにしました。それは、神様の創造というものは、形にならないもの、から、形あるものへと進んでいく、ということであります。

 

 最初に、地は混沌であって、光がなく、何があるかもわからない、そこに光があることによって、そこに何があるか、ということが見えるようになりました。そして、空が造られることによって、天の上と天の下が分けられて、そこに神様のおられる場所というものができた。そして分かたれた、天の下のほうのドロドロは、海と陸地に分けられ、地には草木が生えさせられた。そして果樹をつける木によって木の実ができるようになった。

 

 そうした流れは全体として言えば、まず形にならないものが造られ、その、形にならないものによって、形あるものが造られていく、そういう順番で世界が創造されていった、ということを示しています。

 

 そのことは別の言い方をすると、無数のものから限られたものへと、神様の創造は進んだ、ということです。無数のもの、たとえば、光は数えられません。空も水も数えられません。草や木も、これらもありすぎて数えることでできません。そうしたものが創造されていく中で、徐々に、数えられるもの、限られたものへとなっていくのであります。

 

 そして最終的には、この天地創造は人間の創造へと向かいます。それは人間の立場からすれば、今私たちが生きている生活の周囲、環境というものが先に造られ、そこに最終的に人間というものが神様によって存在させていただける、そういう流れになっています。

 

 そのように、今日の箇所を分析……と言うのでしょうか、分析してまとめることもできます。この分析を通して、今日の箇所のメッセージというものを考えてみます。

 

 この、現代に生きている私たちは、自分という者がどんな存在であるかということを考えます。そして思います。いまの自分は、ここに形あるものとして生きています。けれども、この自分の形がはっきりしなくなったとき、自分は何によって何になるのか、という不安になります。それは目に見える形というだけではなくて、精神的なことも含めて、自分がどういう人であるか、ということを考えます。

 

 それは、当たり前のように思っていた自分というものが、とてもショックな出来事があったり、とても辛いことに出会ったときに、自分というものの形がわからなくなる、という経験です。自分はこんな人間だ、と思っていたのに、そうではなかった。自分はそこそこ強い人間として、なんとか自分の人生を切り開いているつもりだったけど、実はそうではなかった。たとえば病気になったとき、あるいは自然災害にあったとき、あるいは人生の自信が打ち砕かれるような悲しい出来事があったとき、自分はどこに行ってしまったのか、自分の形が見えなくなってしまった。そんな不安になります。

 

 そんなときに、今日のこの創世記の箇所を読むと、何が教えられるでしょうか。この世界の一番最初に、神様が造られたものは、形なきものであった、ということに私たちは気がつきます。光、空、海、陸地、そうした、形にならないもの、というものがまず造られました。そうした、形にならないものによって、その次のものが造られていきます。やがて、陸地には草が生えるようになりました。

 

 光にしても、空にしても、海、陸地、また草木、そうした、ここに描かれている一つひとつのものは、この地球上にあって、この地球が存在する限り、おそらく永遠に変わらないものと言えるのではないでしょうか。実際には、この地球にも寿命があるということは、科学者の研究によってわかっていますけども、それはものすごく長い時間の中のことですから、人間にとっては永遠のようなもの、と言ってもよいと思います。永遠に変わらないものが、私たちの周囲にあるということです。

 

 そして、永遠に変わらない、光とか空とか、そういうもの、これらは何となく存在しているのではなく、神様の言葉によってこの世界に創造された、造られたものであった、と聖書は言っている、ということを知るときに、そうした、光、空、草木、そうしたものには、実は、神様という存在、神様の人格……と言っていいでしょうか (神様というのに人格というのはちょっと矛盾しているかもしれませんが)、光にも空にも海にも陸地にも、草にも、木から取れる実にも、神様の存在が宿っている、そこに神の愛が隠されている、ということを、私たちは今日の箇所を読むときに知るのであります。

 

 そしてさらに、このことを知ります。神様は、この世界を何の意味も無く造られたのではないということです。神様はこの世界を、御心をもって造られました。愛を持って造られました。人格など無いと思われている、この自然環境、その一つひとつに神様の存在というものが現されています。神様が言葉を発することがなければ、光も空もできることはなかった。この自然界のあらゆるものも、そして人間も、そうであった。神の愛の言葉がなければ、この世界はなかった。そのことを、私たちは聖書から知るのであります。

 

 では、その神の愛に応えて、私たちはどのように生きたらよいのでしょうか。それは、ごくごく単純なことでありますけれども、神様のまねをして生きたらいい、ということです。神様が愛の言葉を持ってこの世界を造られたように、私たちもこの世界に対して、愛の言葉をかけていく。神様がそうなされたように、私たちはその神様のまねをして、神様のあとをくっついていって、そして、神様が愛されたように、この世界を愛する、ということが、私たちのなすべきことなのであります。

 

 今日の説教の題は、「光、空、草にも愛の言葉を」と題しました。神様がそうなさって下さったように、私たちもそうしていこう、ということであります。そうして神様が、光や空や、この世界の全体を造って下さったことによって、最終的に私たち人間も、この世界に存在させていただいている、ということに感謝する、そういう道が開けてきます。神様が造られた世界を愛することによって、私たちもまた、神様の大きな愛の中に生きることができるのであります。

 

 けれども、実際に、この世界のことを、この現実世界のことを考えてみましょう。私たちはそのようにできるでしょうか。私たち一人ひとりが、いろいろなことを考える毎日の生活というものは、そんな、とてもじゃないですけれど、光とか空とか、そんなものにも愛の言葉をかけるほどの、そんな心の余裕はありません。そんなロマンチックな心に誰がなれるでしょうか。

 

 生きなきゃいけない、生活しなきゃいけない、飯食っていかないといけない、いろんなことがあります。人とのぶつかりあいもあります。仕事もしないといけない。家族の中でもケンカします。働き場にあっても、社会にあっても、地域にあっても、難しい問題はいろいろあります。自分自身の病気、健康の問題、自分の心の中で苦しむいろいろな出来事。社会の中で起こる様々な問題。世界中で起こる戦争、様々な悲劇。そんないろいろなことを考えるとき、光にも空にも愛の言葉を、神様に感謝を、なんて、ものすごく浮世離れしたロマンチックな世界、そんなふうにも思えてしまいます。

 

 そんな世界であるからこそ、神様は、天地創造の次に何をしてくださったのでありましょうか。主イエス・キリストを、私たちに下さったのであります。この世界全体に向けて、神様の独り子、イエス・キリストを下さいました。

 

 この、神様は、その独り子として主イエス・キリストを私たちに下さった、という、聖書の中にある中心的なこと、一番大切なこと、それは実は神話的な表現です。神様の御心というものを現す、物語における表現です。歴史の現実を言えば、2000年ほど前にイエスという人が生まれた、そのイエス神の国の福音を宣べ伝え、そのことによって人々から憎まれ、権力者層によって捕らえられ、無実の罪で十字架の上で死なれた、そうした血も涙もない現実、現実というものはそういうものです。

 

 しかし、その血も涙もない現実、その中に隠された、神様の御心というものが、神様の聖い霊、聖霊の導きによって教えられたときに、「ああ、そうだったのか、これは神様が私たちのこの罪深い人間の世界をゆるすためになさった、罪のゆるしの出来事なんだ」ということを知ったときに、神は独り子イエス・キリストを私たちに下さった、という、それは神話的な表現でありますが、そこに真実がある、そこに神の愛が現れている、ということを人々は知ったのであります。

 

 そうした、主イエス・キリストによる救いの出来事、ということを理解する土台になること、それが今日の、この創世記の話です。創世記の話は、神話的な表現です。古代の物語を用いて表されています。しかし、これは単に古代の物語なのではなく、その言葉が磨かれて、聖書として目の前に与えられました。ここに神の愛があります。

 

 この現実の世界の中で、私たちは苦しんでいます。自分の形、自分って何なのだろう、あるいは、自分たちって何なのだろう、と本当にわからなくなる、辛くなって苦しくなる、そんなとき、また聖書を読んでみましょう。

 

 神様は一番最初に光を造られました。その次に空を造られました。海を造られました。そして草木を生えさせられました。まず神様は、形のないものを造られます。それは永遠の存在である、世界に造られたときにあった光と、今私たちが見ている光は同じ光であります。その神様の造られた永遠の世界の中にあって、限られた有限のものとしての私たち一人ひとりが、この世界に神様によって存在させていただいています。

 

 その私たちが、神様の愛の中で何をすべきでありましょうか。あなたの神を愛せよ、そしてあなたの隣人を自分自身のように愛せよ、というイエス様の言葉に尽きているのであります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、いつも守り導いて下さっていて、ありがとうございます。世界のすべての人に神様の救い、恵みをお与えください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

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「汚れた手には、主の優しさを」

 2021年9月26日(日)礼拝説教

 聖 書  マルコによる福音書 7章1〜13節

                       (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、

 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、

 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

 

 ————ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、

 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、

 身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、

 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。————

 

 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。

 「なぜ、あなたの弟子たちは昔からの言い伝えに従って歩まず、

  汚れた手で食事をするのですか。」

 
 イエスは言われた。

 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。
  彼はこう書いている。

   『この民は口先ではわたしを敬うが、

    その心はわたしから遠く離れている。

    人間の戒めを教えとしておしえ、

    むなしくわたしをあがめている。』

  あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

 さらに、イエスは言われた。

 「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、

  よくも神の掟をないがしろにしたものである。

  モーセは、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』

  とも言っている。

  それなのに、あなたたちは言っている。

   『もし、だれかが父または母に対して、

     「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン

      つまり神への供え物です」

    と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。

 

 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

 また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

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(以下、礼拝説教) 

 

 京北教会では、毎週の礼拝で、マルコによる福音書、ローマの信徒への手紙、そして旧約聖書、その3箇所から選んで毎週順番に読んでいます。本日はマルコによる福音書7章です。ここには、主イエス・キリストと律法学者の人たちの対話というものを中心にして記されています。

 

 順番に見ていきます。

 「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」とあります。

 

 ファリサイ派というのは、当時の律法学者の一つのグループでした。様々な派があったようです。その中でファリサイ派というのは、特に律法を厳格に守ることを主張していた人たちでありました。律法というのは、旧約聖書に記された様々な掟であり、現代の私たちにとって言えば法律であるといえます。宗教的な意味での法律と、社会における法律が、一体になったもの、それが旧約聖書に記された、律法というものでありました。

 

 その中心は「モーセ十戒(じっかい)」と言われる十の戒めであり、それを中心として細かい、宗教上の様々な規定、そして社会生活における規定が決められていました。それらの律法は、聖書の信仰を持つ人たちにとっては、神様から与えられた掟であって、それを守ることによって神に守られ、神と共に生きることができる、非常に大切なものでありました。

 

 しかし、その律法というものはたくさんの規定があり、また、時代が変わるとその時代に適合しないような、というか、意味がわかりにくくなるものもあったようです。すると、その律法をどのように実際に運用するか、ということを研究する必要が出てきて、学者が生まれ、たくさんの律法学者が、それぞれに解釈をしていたのであります。

 

 その中でも特に厳密に律法を解釈して、それを日常の生活の中ですべて実践する、そのことによって神に救われると信じる人たちが、ファリサイ派の人たちでありました。

 

 そうした人たちがエルサレムから来た、都エルサレムからイエスのもとに集まって来たということであります。それは、都エルサレムから見るとだいぶ離れた、どちらかといえば辺境と呼ばれる遠い所にある、ガリラヤという地域において活動していたイエス様の所に、ファリサイ派の人たちと数人の律法学者が来た、ということは、イエス様が様々な教えを人々に話して、そのことで人々から非常に信頼を得ていた、人気があった、という噂を聞きつけて、ではイエスという人はどんな人だろうかと、探りにきたということであります。

 

 その人たちが都からやってきて、イエスの所にやってきて、その活動に付き合うというか、イエスの話を聞いたり一緒に行動する中で、その人たちは、あることを見つけました。 

 

 次の箇所です。

 「そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」とあります。

 

 そして、そのあとに、横線があって、挿入部という形で、解説が福音書の中に入っています。

 「————ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。————」

 

 ここまでが、この前後に横線の引かれた挿入部、あとから解説として書かれた部分です。こうした解説が付けられたのは、もしこの解説がなければ、洗わない手で食事をするということが、単に不衛生なこと、というように読者に受け取られてはいけない、という配慮からです。単に不衛生だったのではなくて、宗教的な清めの儀式を彼らはしていなかった、そういう人がいた、ということがここで問題になっていた、ということをここで説明しているのであります。

 

 この解説の文章の中で、「昔の人々の言い伝え」という言葉が出てきていますが、これは、旧約聖書の律法そのものではなくて、律法を研究している学者が、その律法から導き出した、律法とは別の教えのことを「言い伝え」という言葉で表現しているのであります。

 

 旧約聖書の律法の中には、食事する前には必ず手を洗うこと、という戒めはありません。それは実は律法の中にはないのです。しかし、律法を研究している学者が、律法の中にはないが、律法の考え方に沿えば、生活の中でこうしなければならない、と決めたのが、食事の前に手を洗うということであり、これは律法ではないので、「昔の人々の言い伝え」という言葉で、人々の間で流布していたようであります。そのほかにも、律法では決められていないけれども、言い伝えとして決められていたことが、たくさんあったということが言われています。

 

 そしてこう続きます。

 「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔からの言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」

 

 イエスの弟子の中に、手を洗わないで食事をする人がいるのを見つけました。汚れたことをしている、と思えた人を見つけました。そして、それはなぜか、とイエスに問うたのであります。

 

 それに対してイエス様は言われました。

 「イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』」

 

 イエス様はこのように言われました。自分に対して問うてきた人たちに対して、「あなたたちのような偽善者」と、いきなり厳しい言葉を投げかけています。そして、預言者イザヤの言葉として、イザヤ書29章の言葉が引用されています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」

 

 口先では、自分たちは律法の教えを守っているかのように言うけれども、実際、その心は神様から遠く離れている。神様から離れて、人間の言い伝えをむなしくあがめている。そうした、イザヤの時代の人々の様子を批判した、預言者イザヤの言葉を引用して、それと同じだ、ということをイエスは言っているのであります。

 

 ファリサイ派の人たち、また律法学者の人たちは、こうした旧約聖書イザヤ書の言葉をよく知っていたはずであります。その人たちは、誰よりもよく聖書を研究してきた人たちですから、このイザヤの言葉を知っていたはずです。しかし、まさにそのイザヤが批判したのが、今のあなたたちのことだ、としてイザヤの言葉を引用して彼らを批判しているところに、イエス様のものすごい批判の心が現れています。

 

 そして こう続きます。

 「さらに、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。「もし、だれかが父または母に対して、

『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 こう言ってイエス様はこの箇所を締めくくっておられます。ここで仰っているのは、モーセの言葉というのはモーセ十戒、律法としての十の戒めのことであり、その中で「あなたの父母を敬え」ということが教えられています。それにも関わらず、本当は両親に差し上げるべきものを「これはコルバンだ」と言えば、差し上げなくても済むのだ、と言っているというのです。コルバンというのは、神への供え物ということを意味している言葉です。「これはコルバンだ」といえば、それを両親にあげなくて済むのだ、そういう言い方で、自分の財産を自分の手の中に守っている、ということです。

 

 そんなやり方は、もちろん旧約聖書の律法の中にはないのです。しかし、「昔の人の言い伝え」の中では、そのようにすればよい、ということが認められていたようであります。そのようにして、元々の旧約聖書の律法から離れて、人間の社会生活における細々としたことを、こうしたときにはこうしたらいい、と決めて、それが、あたかも神の掟であるかのように人々に教え、それによって社会生活を律している、そういう生活のあり方の中で、神様に対する本当の信仰というものが失われている、ということをイエス様は厳しく批判しておられるのであります。

 

 今日の箇所は、以上のようなことを私たちに伝えています。では、今日の箇所から、現代の日本社会に生きている私たちは、何をメッセージとして受け取るのでありましょうか。

 

 こうした箇所を読むときに私たちは、宗教の意味ということを考えさせられます。どの宗教においても、善いものと悪いもの、あるいは、清いものと汚れたもの、あるいは、神様の御心にかなうものとかなわないもの、というものが決められていて、その決まりに従って生きることによって人間は幸せになり、その決まりにそむくことによって不幸になる。そのような物事の価値観というものが、宗教によって人間の心に伝えられていきます。

 

 世界中にある、そうした宗教、あるいは宗教的な考え方というものは、人間にとって、生活の知恵という意味で大きな役割を果たしています。それらは、その理屈が本当の意味で正しいかどうかということは別として、このようにしたら人間は幸福に生きられる、このようにしたら人間は失敗して不幸になる、という、おおまかにそうした考えを、人間の生活の知恵の中で蓄積してきたものが宗教に現れています。そうした意味で、世界中にある宗教的な考え方というものは意味があります。

 

 しかし、その宗教というものが段々と社会の変化の中で、時代に付いていけなくなっても、同じように昔のことが繰り返されていくと、宗教は社会の中で矛盾が生じさせます。すると、その矛盾を解決するために新しい解釈が出てくる、すると、その新しい解釈が正しいかどうかが研究される、その中でいろいろな意見が分かれてくる、そうしたことが世界中の様々な宗教において起こるわけであります。そのなかで、宗教が、本当に人間を大事にする教えになっているのか、というと、そうではない、ということが多々起こってくるのであります。

 

 そうして宗教というものが、元々は人間にとって意味あるものであったにもかかわらず、それが人間を苦しめるものにもなる、ということを、私たちのこの人間の世界と言いますか、人類というものは経験していると言ってよいと思います。キリスト教もまた、その例外ではありません。ユダヤ教もそうであり、仏教もそうであり、神道もそうであり、イスラームイスラム教)もまたそうでありましょう。

 

 人間というものが担っている限り、必ずそうした矛盾が起きる、そう言ってよいと思います。

 

 そして、そうした矛盾ということに対して、誰が、何を言えるか、ということは、大事なことです。というのは、今日の箇所にありますような、宗教的な戒めの解釈にかかるような問題は、今の日本の社会の中に生きていて、そんなに、今日の聖書の箇所にあるような形では、現れることがそんなにないような気がするのです。「ここまで宗教的に極端じゃないですから、私たちの社会は」と思うのです。しかしこうしたことは、現代でも多々あると私は思います。

 

 たとえば、公害の問題があります。いま、公害という言葉自体をほとんど聞きませんが、公害というものがたくさんありますね。原子力発電の事故、そのことから発生した、たくさんの被害、そのことをどう見るのか。これは非常に重要な問題であります。また、いま私たちの世界全体が直面しているコロナ問題があります。どうやって感染を防ぐのか、ということはとても重要な問題です。どうしたら感染しないで済むのか、どんな生活態度であればいいのか、誰が言っていることを信じたらよいのか、私たちがどう生きたらいいのか、ということが、朝から晩まで、世界中で議論されています。

 

 その中で、いろんな批判がこの社会の中でわいてきます。「あんなことがあっていいのか」「あれは行き過ぎだ」「しかしこれぐらいはいいのではないか」、そんな言い方をしながら、私たちはお互い、忍耐することと、寛容であること、この二つが大事であるということを、この時代の中で思わされています。

 

 忍耐、そして寛容。そして、正しい知識、正しく恐れるということ。こうしたことが繰り返し繰り返し、新聞でもテレビでもネットニュースでも、繰り返して同じ事が言われています。それでも私たちの不安は収まることがありません。

 

 実は、聖書の時代にイエス様が、本日の箇所の中で直面しておられる課題というのは、今の私たちの時代にも、大きく形を変えて直面している課題です。「なぜ、あなたたちはそんなふうにしているのか?」という批判が他者からやってくる、それに対してどう答えるか、ということが問われているのであります。

 

 今日の箇所を読んで皆様は、どのようなことを思われるでありましょうか。単なる古代の宗教を巡る議論、宗教的な議論、という問題ではなく、いまの社会において起きている問題において、人との関係において非常に敏感な問題について、他者との関係において私たちはどうあるべきなのか。汚れ、病気、汚染、そうした問題に関してどう考えるのか。これらはいずれも難しい問題であり、聖書を読めば一つの答えがポンと分かるという問題では到底ありません。これらはどれも、世界全体で悩みながら、みんなでそれぞれの問題への答えを考えていくしかありません。

 

 しかし、そんな世界の中にあって、今日の箇所を通して、聖書が私たちに伝えていることがあります。それは何でしょうか。私は今日の箇所を繰り返し読む中で、一つのことに気がつきました。それは、今日の箇所においてイエス様が語っておられる言葉は、厳しい批判の言葉ばかりであるということです。「あなたたちのような偽善者」、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」 ここには、ゆるしとか、救いとか、いやしとか、そうした言葉が何一つなくて、鋭いイエス様の言葉だけが今日の箇所に記されていると思います。

 

 こうした厳しい言葉だけを聞くときに、私たちは何を受け取るでしょうか。救いようのない現実、そしてその中にあって、その中でイエス様の言葉が厳しい批判として響き続ける。そのように受け取るのではないでしょうか。今日のイエス様の言葉は厳しいなあ、と。そして、私たちも責められているのかなあ、と思うと、ちょっとしんどくなるかもしれません。

 

 厳しい言葉というものは、それを「もっともだなあ」とは思いつつも、長々とその言葉を心に収めておくのは、ちょっとしんどいところがあるのですね。誰でもそうだと思いますけれども、その厳しいイエス様の言葉を聞き続けるというか、イエス様からの批判を受け止め続けるということは、なかなか気が重たいものであるからです。では、今日の箇所をどんなふうに受け取めたらよいのでしょうか。

 

 今日の箇所を繰り返し読む中で、私は気がつきました。今日の箇所では、非常に厳しいことをイエス様は仰っている。けれども、そのイエス様の厳しい言葉によって、守られた人がいる、救われた人がいる、ということです。その人のことに私たちは気がつかなくてはなりません。それは、イエス様の弟子たちの中にあって、手を洗わないで食事をした人であります。

 

 この人が手を洗わないで食事をした、その理由は聖書には一つも書いてありません。急いでいたのか、うっかりしていたのか、あるいはただ早くご飯が食べたかったのか、わかりません。あるいは、律法の規定というものを知っていて、昔の人々の言い伝えでは手を洗うことになっているけれども、本当は律法の中にはそんなことはないんだ、ということをイエス様から教えていただいていた弟子がいて、「そうなんだ、これは律法ではないんだ」と思って、わざわざ手を洗わないで食事をした弟子もいたのかもしれません。そのあたりの理由は、全くわかりません。

 

 しかし、どういう理由であれ、弟子の中で、手を洗わないで食事をした人がいた、そしてそのことが、ファリサイ派などの律法学者の人たちに見つけられました。そして、なぜそんなことをしているのか、それは汚れたことである、と断定されて、そのことで彼らはイエス様に対して、「あなたの弟子たちはなぜ汚れた手で食事をするのか」と批判しました。そのときに弟子たちは、イエス様の前で小さくなっていたはずです。「ああ、自分たちのしたことによって、イエス様が責められている」と思ったはずです。

 

 そのように、昔の人々の言い伝え、ということが社会に広まっていたために、手を洗って汚れを落として食事をすることで、神様から救われると信じていた人たちから、手を洗わなかった弟子たちは、神から救われない、神への信仰から外れた人たちであると思われました。このときに、イエス様が旧約聖書のイザヤの言葉を引用して、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ」と言うことによって、つまり、彼らに対して闘いをいどむことによって、そして、聖書の言葉に基づいて明確に批判することによって、この、手を洗わないで食事をした弟子は守られたのです。

 

 なぜ、手を洗わなかったのか。それは現代の私たちの感覚で考えるように、単に不潔であったということではないと思います。仮にそうであったとしたって、手を洗わないで食べたときには、その人なりの事情があったのです。もちろん、うっかりしていたということかもしれません。気にしていなかったという人であるかもしれません。実はそもそも、聖書のことも社会の決まり事も知らない人であったかもしれません。

 

 その理由がどうあれ、なぜ手を洗わなかったのか、ということの、その背景が問われることなく、その事実だけに目を付けられて、その弟子は批判されています。しかし、イエス様はその彼らからの批判に対して敢然と勇気を持って立ち向かい、聖書の言葉をもって闘ってくださったのであります。

 

 そして、そのことは単に弟子たちをかばうということではなくて、そのことを通じて、律法学者たちとの間で、ご自分は何が一番対立しているのか、という大きなテーマを、イエス様はここでお語りになっておられるのであります。

 それは、神への信仰において、一番大切なことは何か、ということを言っておられるのであります。一番大切なこと、それは、本当に神様を信じて、神様の方向を向いて生きるのであるならば、その神のもとで生きている、一人ひとりの人間を大切にすべきである、という、そのことをここで示しておられるのであります。

  

 福音書の他の箇所で、イエス様は言っておられます。たくさんある律法の中で何が一番大切ですか、と聞かれたときに、イエス様は二つのことを答えられます。一つ目は、あなたの神を愛せよ、ということです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第1の掟です。そして第2の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。これら二つのことが一番大事だと仰ったのです。(マルコによる福音書12章28〜31節)

 

 何が一番大事ですか、と一つのことを聞かれたときに、イエス様は二つのことを答えられました。ということは、この二つはひとつながりのことである、ということです。心を尽くし、力を尽くして神を愛する、ということは、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい、ということと結びついています。神を愛すること、隣人を愛することは、切っても切れない関係です。

 

 そうであれば、手を洗わないで食事をする人を見つけたとき、汚れた手で食事をした、と責めるのではなく、愛を持ってその意味を尋ねるべきだったのです。あるいは、愛を持って、あえて尋ねない、という選択もあったでしょう。

 

 しかし、そうしたその人自身のこと、手を洗わない人の背景や事情を一切顧みない、ただ目の前の事実だけを見て、それが汚れているか、汚れていないかだけを判断する人たちは、一見信仰深く見えても、そうではないのだと、むなしいことをしているのだと、イエス様ははっきりと指摘したのでありました。

 

 そうしてイエス様が相手方に対して厳しい言葉をかけることによって、この手を洗わなかった弟子は、救われたのです。この社会の中にあって守っていただけたのです。

 

 この話から、私たちは一人ひとり、何を教えられるでありましょうか。私たちが普段生活している中で、自分の手というものは、どんな役割を果たしているでしょうか。手というものは、いろいろなところに触れています。いろいろな所に触れますから、必ず汚れます。

 

 あるいは自分自身で、自分の手は汚(けが)れていると思うこともあるでしょう。それは単に衛生的かそうでないかということではありません。人生の中で私たちが使う手、それは決してきれい事ばかりではありません。私の手は汚れている、私の手は人を苦しめてきた、私の手は何をしてきたのだろう、と問う、そのようなことがあります。そのことを思うとき、「あなたは、なぜ汚れた手で食事をするのか」と問われるなら苦しくなります。

 

 いや、石けんで洗っていますから、コロナになる前から、ずーっと洗ってきましたから、病気にかかりたくないから、ずっと手を洗ってきました、そうも言えるでしょう。しかし、あなたがたの手、私たちの手は、本当にそんなにきれいでありましょうか。人に迷惑をかけてきた手、人を苦しめてきたこともある手、その汚れた手でどうして食事をするのか、ともし問われたならば、私たちは答えに苦しみます。

 

 そんな私たちに対して、イエス様がいてくださるのであります。聖書の言葉を持って、そして今日の箇所のようにイエス様が闘ってくださることによって、イエス様は人々に憎まれて十字架に架けられ、死なれました。そして復活なされた主イエス・キリストが、今日も私たちと共にいてくださるのであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たち一人ひとり、言い訳のできない人生を歩んできた中にあって、福音の光に照らされて、今日から新しく生き始めることができますように、心からお願いいたします。この社会の中にあって、社会における様々な人からの視線に耐えられない、罪ある私たち一人ひとり、すべての人が、神によって救われ、用いられ、そして人が互いに支え合って生きることができますように、イエス・キリストの優しさをどうか、私たちにお与えください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。