京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

2021年8月の礼拝説教

 

京北教会 

2021年8月1日(日)、8日(日)、15日(日)、22日(日)、29日(日)礼拝説教

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「平和があなたを救う」

2021年8月1日(日)平和聖日 礼拝説教

 

聖 書  マルコによる福音書 5章 21〜36節   (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、

 大勢の群衆がそばに集まって来た。

 

 イエスは湖のほとりにおられた。

 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、

 イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。

 

 「わたしの幼い娘が死にそうです。

  どうか、おいでになって手を置いてやってください。

  そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

 

 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた。

 

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 

 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、

 全財産を使い果たしても何の役にも立たず、

 ますます悪くなるだけであった。

 

 イエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれこみ、後ろからイエスの服に触れた。

 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

 

 イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、
 「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。

 

 そこで、弟子たちは言った。

 「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。

  それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

 

 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。

 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、

 すべてをありのまま話した。

 

 イエスは言われた。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。

  もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 

 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。

 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生をわずらわすには及ばないでしょう。」

 

 イエスはその話をそばで聞いて、

 「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

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 (以下、礼拝説教) 

                        

 本日は、日本基督教団の暦で平和聖日という名前が付けられている日であります。8月第1日曜日です。この日を平和聖日としたのは、8月は、1945年の広島・長崎への原爆投下、そして日本の敗戦あるいは終戦の記念日があることを覚えて、平和を祈る日として平和聖日が定められたのであります。

 

 この日にあたり、平和という言葉を前にして、私たちはいろいろなことを思うことができます。それは、平和というものは誰もが願っている、必要とされているものであるという、平和の尊さ、大切さと共に、人間の罪深い世界は、本当の平和を作り出すことなく、様々な戦いを繰り広げてきた、そして現在でもその戦いの中にあるという、その現実であります。現実ということを考えるとき、私たちが願う様々な思いが打ち砕かれていく、そんな気持ちになることが多々あります。

 

 平和というのは絵空事なのだろうか、虚構なのだろうか、と思います。願っても願っても与えられないものとして、平和があります。日本社会の中で生きていますと、大きな戦争あるいは軍事的な対立を直接経験することが戦後にはなかったと言えるでしょう。しかし世界全体で考えてみますと、この地球というものがどういう場所であるか、よくわかります。この世界の中にあって、私たちはどのように生きたらいいのか、それぞれにどんな人生を過ごすことが良いことなのであろうか、と思います。

 

 今日、この平和聖日の礼拝にあたって、マルコによる福音書5章を選ばせていただきました。

最近の京北教会の礼拝では、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を毎週交互に読むことで、イエス様のメッセージと使徒パウロの手紙の言葉、それらを交互に読むことにおいて、神様のメッセージというものを深く受け止めていきたいと考えています。

 

 本日の箇所は、マルコによる福音書です。ここには二つの話が交互に出てきます。最初の話は、ヤイロという人の娘が病気で死にそうになっているということで、イエス様が出発したという話です。その出発した後に、今度は別の人が出てきます。12年間出血の止まらない女性、ずっとこの病気で苦しんできた人の話が出てきます。そして、その人の話が終わったあと、最初に出てきたヤイロという人の娘が、もう死んでしまった、だからもう来なくていいです、ということを知らせに来た、という話があります。こうして、一つの話の中にもう一つ別の話がはさまる形になっています。

 

 せっかく、一人の娘をいやすためにイエス様が出発したら、別の人をいやすために、そこで足止めをくらったというか、立ち止まることになり、そのことで時間がかかり、最初にいやしを願った人のところに行くことができなかった、ということでありますから、なんとも言えない無情な感じがすることであります。

 

 イエス様という方がいて、病気を治してくださる、そのように誰もが願っていた時代において、このようなことが起こっていたのです。ある一人の人をいやそうと出発した、しかし、その途中で別の人をいやすために時間がかかった、そのために最初に行こうとしていた人のところには行けずに、その人は死んでしまった。こんなことが起こったときに、いったいどうしたらよいのでありましょうか。イエス様が途中でそんなことをしていたからだ、別の人に関わったからだ、と責めるのでしょうか。責めたくもなるでしょう。しかしイエス様は、今日の箇所の一番最後にこう言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」

 

 ここには、あなたが一番最初に信じたことを、これからも信じ続けなさい、そういう意味が込められています。この私の娘が、イエス様に出会うことができたら必ずいやされる、と信じていた、そのことをこれからも信じ続けなさい、そうした意味がこめられています。もうすでに、その娘の命は失われた、と言うのにも関わらず、イエス様はそのように仰るのです。

 

 このあとも、マルコによる福音書のこの話は続いていきます。本日の箇所のあとにどうなったかということは、聖書でこの福音書の続きを皆様それぞれに読んでいただければと思います。

 

 今日のこの箇所においては、イエス様がなされることにおいて、希望というものは失われることはなかった、ということが言われているのであります。人の目から見て無情に思えることがあり、それは偶然であったり、意図的であったり、いろんなことが言えるのでしょう、しかし、あなたが最初に信じたことをこれからも信じ続けなさい、とイエス様は私たちに仰っているのであります。

 

 今日の箇所を順番に見ていきます。最初の段落の所には、ヤイロという人が、その幼い娘の病気のためにイエス様に来てくださいと願った話が書いてあります。

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫ってきた。」

 そのあとに「さて、ここに」とあって、一人の女性の話が出てきます。12年間苦しんでいた人であります。12とは聖書の中で完全ということを意味しています。12年間ということは、もう十分に、完全に苦しんできたということを示しています。

 

 「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」

 

 こうしたことは、もしかしたら現代でも、様々な医療があってもそれでも救われない、そうした苦しい現実があることを思わせます。お金をつぎこんでも、何の役にも立たなかったという、本当に無情な現実というものがあります。

 

 「イエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれこみ、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」

 

 この女性は自分の存在というものを明らかにしませんでした。イエス様と弟子たちは、このときヤイロの娘をいやすために出発したところでありましたから、おそらく急いでいたでありましょう。引き留めることなどできない。そう感じた女性は、後ろから紛れ込み、そっとイエス様の服のすそに触れました。すると、すぐにいやされたのです。

 

 「イエスは、自分の内から力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」

 この女性からすると、後ろからそっとイエスの服のすそに触れた、そうでもすればいやしてもらえる、それだけでもいやしてもらえる、とこの女性は信じていたので、その通りになったのです。そこで、イエス様がそこで行ってしまえば、この話はそれで終わるところでした。

 

 ここでイエス様自身が立ち止まることがなければ、ヤイロの娘の癒やしへと、すぐに出発して、その道のりを行くことができたはずです。しかし、イエス様は立ち止まりました。「私の服に触れたのはだれか」と言われました。しかし、弟子たちは言いました。

 

 「そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。

  それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか。』

 

 イエス様の弟子たちにとって、今からヤイロの娘の所に行くということが大事なのであって、誰がここでイエスに触れたかなどということは、どうでもいいことでありました。この女性がイエスに触れていやされた、ということは、その人自身にしかわからないことですから、他者には全く関係がないことでした。しかしイエス様は見回しておられたとあります。そこで立ち止まって、だれが私に触れたのか、と見回しておられたのです。それは周囲の人たちにとって不思議に思えることでした。

 

 そして、この女性にとっては、私が触れたことがわかってしまった、という、このときの気持ちは、ばれてしまった、一体どうしよう、そんな気持ちであったのではないでしょうか。

 

 「しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」

 後ろからまぎれこんで、そっと触って癒やされた、それがイエス様の力をどろぼうしたことであるかのように思われたのだと、この女性は察したのです。本当ならば正面から向き合って、「イエス様、どうぞ私を癒やしてください」と、イエス様に正々堂々とお願いをして、おゆるしを得ていやしていただく、それが当然の礼儀でありました。しかしこの女性は、後ろからやってきて、まるでどろぼうするようにイエス様のいやしの力だけをかすめ取った、そのように考えたときに、自分は罪を犯した、神様の力の一部分だけをかすめ取った、そのことに罪を感じて、震えながら進み出て、すべてをありのまま話したのです。 

 

 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」

 

 こうして、イエス様は、この女性に対して、その罪をゆるすどころか、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」という言葉をかけられました。このとき、この女性がイエス様の中から、神の子としての力をかすめ取ることで救われたのではなくて、この女性の信仰がこの女性自身を救った、だから安心して行きなさい、とイエス様は仰っています。

 

 今日の箇所を読んでいて、一番ひっかかる言葉、あるいは一番心にとまる言葉は、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉ではないか、と私は思います。どういう意味だろうか、とイエス様に尋ねてみたいのですが、どういう意味であるかということは、記されておりません。イエス様から答えが返ってくるわけではありません。

 

 私たちは、この「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を、どういう意味だろうか、と考えても答えが得られないので、ただ、この言葉を感謝していただく、ということしかできません。この女性もそうでありますが、いま聖書を読んでいる私たち一人ひとりも、自分に信仰なんてあるのだろうか、と考えたときに、信仰なんてないようにも思います。あるいは、あったとしても、ちっぽけなことにも思います。というのは、ちっぼけな私たち一人ひとりは、利己的なことばかり考えているからです。

 

 この平和聖日にあたっても、私たちは、平和ということが尊いものであることはわかります。そのことを心から願います。けれども心の中に行き交ういろんな思い、複雑なものもあります。結局、自分がよければ、自分が救われてよければ、それで満足しているのではないのか、という思いです。世界のニュースを見ても、ああ、あの国はかわいそうだねえ、あんなところで戦争が起こっているよ、あんなふうに食べるものがなくて困っている人たちがいるよ、もっと国連がなんとかしたらいいのにね、大きな国がなんとかしたらいいのにね、と思うばかりで、そうした問題が自分自身のこととは思えない。そうした問題がうとましくなっている。そんな自分に気がつくこともあります。

 

 信仰といっても、何かきれい事を身にまとっているような、いい格好をしているような、そんな気になるときもあるのです。しかし、そんな私たちに向かって、イエス様は仰るのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と。

 

 この12年間病気で苦しんできた女性に、どんな信仰があったのでしょうか。後ろからそっとイエス様に近づいて、その力をかすめ取るだけで良かった。私の罪をゆるしてください、とか言う気持ちが何もなくって、ただ後ろからまぎれこんで触れて、もう私の病気が直ればそれだけでいいんだ、そのような思いでいたときに、「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様から言われたときに、この女性自身が一番驚いたはずです。こうして、まことの平和が、神様からこの女性に与えられました。

 

 まことの平和、それは人間が。努力して、努力して、勝ち取っていくものではなく、私たちの心の中にある、自分でも気がついていない心、というものに神様が気づかせてくださる、という形でまことの平和が現されるのです。自分では、そんなことは思ってもいませんでした、というところにこそ、まことの平和への願いがあります。

 

 聖書において平和という言葉は、神様との間の平和、ということが一番の意味です。人間は罪深い存在であります。神様のほうをまっすぐ向いて生きることができない存在であります。そのことのゆえに人間は、神様の方向から自分の心の向きをそらして生きていく、そのことが一番の罪です。そのことによって利己的な生き方が蔓延し、生きていく、それが世界の現実です。その世界に本当の平和を与えるのは、神様です。

 

 では、人間はまず何をすべきでしょうか。それは、まず神様のほうを向くということです。そして、まっすぐではなかった神様との関係をまっすぐにするということにおいて、神様との和解、神様からの平和というものが与えられます。そのことが一番にあって、そこからこの人間世界における平和ということが、少しずつ作られていくのです。

 

 平和が少しずつ作られていくのです。世界において、どれほどに平和の枠組みを作っても、あるいはものすごく強い軍隊を作って世界を治めようとしても、人間一人ひとりが罪人である限り、世界にまことの平和は訪れません。しかし、一人ひとりの心にまことの平和が与えられるならば、そこから時間はかかっても、この世界の中で本当の平和を作り出す流れというものが生まれていくのであります。

 

 今日の聖書箇所においても この12年間苦しんできた女性、ただ病気が治りたい一心でイエス様の後ろから近づきそっと触れた、盗人のような、あるいは神の恵みをかすめ取るようなものでありました。しかし、その女性の心の中には、本当に私は直りたいと思っている、そしてイエス様であればきっと私をいやしてくださる、その信じた希望というものが「あなたの信仰」とイエス様から呼ばれる信仰となったのであります。

 

 努力して、努力して、立派な信仰を自分の中に作り上げたのではなくて、自分が今まで持ってきたものを、捨てていった最後に残ったものに、その人の信仰があったのです。全財産を使い果たしました。どの医者にかかっても治りませんでした。捨てた、捨てた、捨てた、その最後に残ったものが、イエス様に触れたらそれだけでいやされる、それだけで幸せなんだ 自分の力で作り出す平和とか、人間の力に頼った平和ではなくて、心の中で最後に残ったもの、それだけが「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのであります。

 

 この女性とイエス様の出会いは、イエス様自身がこの女性を探されたのです。私の服に触れたのは誰か、と言って探してくださった。それは神の恵みというものは、一方的にかすめ取るものではなく、イエス様が追いかけてくださるということです。神様はご自分の恵みが誰に渡ったのか、知りたくて探し求めておられるのです。そのことに対して震えながら進み出て、ありのまま話したという、この女性の態度に私たちが平和聖日にあたって持つ態度というものがあります。

 

 神様から与えられる平和だけが本当の平和だと思ったときに、私たちは神様から探していただけるのです。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる、その恵みに預かるのです。

 

 そのことのためには、いくらかの時間を費やすことになります。今日の箇所においては、いくらかの時間を費やすことによって、ヤイロという人の娘は、命が失われてしまいました。と言われるまでに、時間がとられてしまいました。しかしイエス様は仰いました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ここには、あなたが最初に信じたことを、これからも信じ続けなさい、そうすれば恐れることはないのだ、そういう意味がこめられています。

 

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生をわずらわすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、

 『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」

 

 平和聖日、というものが教会の暦として決められています。その平和聖日ということを決めた理由は、歴史というところにあります。悲惨な歴史の中で、一番最初に願ったことは何だったのでしょうか。今から平和ということを願うときに、一番最初に思うことは何でありましょうか。この世界の現実の中で、いろんな希望がみんな捨てられていって、一番最後に残るもの、もう神様しか私には頼るものがない、そこにしか本当の希望がない、と思い切っていったときに、私たちは神様の恵みにあずかり、そこから平和を作り出す者として用いていただけるのであります。それは、希望が全くないような世界において、神様から希望が与えられる、そういう経験であります。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、私たちはこの暑い日々の中で、自分の頭が回らないような、しんどいような、そんなことも経験をします。コロナ問題で外出もままならない中、この抑圧された空気の中において、私たちは、自分の力で平和を勝ち取るのではなくて、神様から与えられる平和に唯一の希望を託します。そして、その神様からの恵みに応えて、生きていくことにおいて、この世の中で平和を作り出す者にならせてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げいたします。

 アーメン。

 

 

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「見えない神様への希望」

2021年8月8日(日)礼拝説教 今井牧夫

 

聖 書  ローマの信徒への手紙 8章 18〜28節 

(新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 現在の苦しみは、

 将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、

 取るに足りないとわたしは思います。

 

 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 被造物は虚無に服していますが、

 それは、自分の意思によるものではなく、

 服従させた方の意思によるものであり、

 同時に希望を持っています。

 

 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、

 神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

 

 被造物がすべて今日まで、共にうめき、

 共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

 

 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、

 神の子とされること、つまり、体の贖われることを、

 心の中でうめきながら待ち望んでいます。

 

 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

 

 見えるものに対する希望は希望ではありません。

 現に見ているものをだれがなお望むのでしょうか。

 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 

 同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。

 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、

 “霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。

 

 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。

 “霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、

 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 

京北教会ではペンテコステ(聖霊降臨日)のころより、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を毎週交互に読んでいます。それは、主イエス・キリストの福音と、その福音を受けてクリスチャンとなった使徒パウロの、両方の言葉を聴くことにおいて、より深く聖書のメッセージを聴いていきたいと願っているからです。本日はローマの信徒への手紙8章です。

 

 本日の箇所には、使徒パウロが考えていることが記されています。ローマの信徒への手紙は、手紙という名前ですが、実際には神学論文といってもいいような内容です。

 

 この箇所において、使徒パウロは、希望ということを教えています。目に見えないものに対する希望であります。この手紙を記したときに、パウロの周囲にはたくさんの苦しみがありました。それは、クリスチャンに対する迫害ということであり、そして当時の世界全体にあった帝国主義、軍事力による国の支配の問題、また貧富の格差、そうした様々な社会的な問題がありました。そしてパウロ自身にはおそらく、健康上の問題があったと考えられています。何らかの病気あるいは障害があったということが、パウロの書き残した手紙や使徒言行録から推測できます。

 

 パウロ自身が様々な悩み苦しみを負った人でありました。かつては熱心な律法学者としてユダヤ人の中でエリートの立場なので、そしてクリスチャンを迫害する側の人間でありました。しかし、あるとき目が見えなくなったときに、その暗闇の中でパウロは180度の転換をとげることになりました。自分が今まで熱心に迫害してきたクリスチャンたちから聞いていた、イエス・キリストの言葉を暗闇の中で聴いたのであります。そして、それまで信じていた律法主義、旧約聖書に記された律法を守る、その行いによって救われる、という信仰では、もはや自分は救われない、目が見えなくなったパウロはそのことを経験したのであります。

 

 その後、パウロは目が見えるようになりましたが、そのときに聴いたイエス・キリストの言葉はパウロの人生を180度変えました。そのような回心を遂げたパウロの人生、それは現代の私たちの目から見たときに、素晴らしい人生ともいえますが、そして実際、素晴らしい人生だったと思いますが、その時代に生きた多くのユダヤ人にとっては、パウロは裏切り者であったことも、私たちは知っておく必要があります。

 

 ユダヤ人のエリートとして良い教育を受けて、律法学者として熱心に活動していた、あのパウロがいつのまにか律法主義を捨てて、イエス・キリストなどというものを信じるようになってしまった。律法を守らなくても、ただイエス・キリストを信じるだけで救われる、そんな新しいことを教え始めた、そのようなうわさを聴いたユダヤの人たちにとって、パウロは裏切り者でした。

 

 使徒言行録などには、パウロの命は普段から狙われていたことが記されてあります。パウロの人生は死と隣り合わせの人生であったとも言えます。そのような、パウロという人の苦しみというものが背景にあって、今日の聖書箇所があります。順々に見ていきます。

 

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

 

 いま味わっているパウロの苦しみ、あるいは最初の時代の教会の人たちが味わっている苦しみは、将来の栄光に比べると、取るに足りないといいます。

 

 そして次に言います。

 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に希望を持っています。」

 

 ここで言われている被造物というのは、神様によって創造されたもの、創られたもの、人間など、すべてのものを指しています。この世界のすべては神様の子たちの現れることを切に待ち望んでいると言っています。それはいつか来るべきときに、いま私たちが生きているこの世界が役割を果たし終えて、本当の神の国というものが現れるとき、そのときのことを指しているようであります。そのときに、この世界が一新される、刷新されて全く新しくなる、そのことをパウロは信じていました。ということは、いまあるこの世界というものは、永遠のものではなく、いつか新しく生まれ変わっていく、ということをパウロはここで言っています。

 

 では、今ここにある現実とは、どういうものなのであるか。それはいつか神の国が現れることを待ちながら、虚無に服している、それは自分の意思によるものではなく、神様がそのように定められたからである、そういうパウロの理解が書かれています。そこには虚無もありますが、しかし、同時に希望も持っている、ということを言っています。

 

 その後、こう言います。

 「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」つまり、いつか神の国というものが現れるときには、人間だけではなくて、この世界のすべてが新しくされて、栄光に輝く自由にあずかることができる、そのときが来るまでのこととして、今があると言っています。

 

 次にこう言います。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

 

 世界全体が同じく苦しんでいる、というのです。世界全体が、産みの苦しみを味わっている、それは本当になるべきものになるための、その途中の経過を歩んでいる、ということを言っています。

 

 そして次にこう言います。

 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 

 この箇所では、「霊」という漢字一文字に、前後にちょんちょんと小さな記号、コーテーションマークが前後に付けられています。これは新共同訳聖書の翻訳の仕方ですが、「霊」という言葉が、「神の霊」ということを意味するときに、このように表記するという規則になっています。

 

 霊というのは目に見えない働きですが、その目に見えない神様の働きの初穂をいただいている、つまり最初の恵みを受けているのが自分たちである、という表現がここでなされています。

 

 ここには、パウロの神学的な世界の理解の仕方が現されています。この世界全体を神様は創られた。その世界全体は、いつか役割を果たし終えて、新しい神の国が現れる。それまでの中間的な存在であると。その中間的な存在である、この世界にあって、自分たちは、神の救いの一番最初の恵みにあずかっているというパウロの理解があります。そこには、イエス・キリストを神様が私たちに与えてくださることによって、新しい時代が開かれて、その救いにあずかっている者たちが、神の初穂である、というパウロの理解があるわけです。

 

 このようにパウロは、自分の信じている世界観というものを語った後に、次のように言います。

 「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」

 

 パウロが示している希望とは、このようなものでした。私たちがいま生きている世界は、絶対のものでなく、永遠のものではなく、いつか新しくされていくのだ、というパウロの信仰が満ちあふれています。

 

 そして次にこう言います。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むのでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

 

 ここには、希望という言葉を使うときに、人間誰しもが、目に見えるものを欲しがるが、そうではない、ということを言っているのです。現に見ているものをだれが望むのでしょうか。目に見えるものとは、目に見えるもの、そのもので、もうそこで完結しているものです。将来のことは、目に見えるものではないのです。クリスチャンが持つ希望とはそういうものである、ということです。 

 

 そして次にこう言います。

 「同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。」この霊という言葉に前後に、チョンチョンというコーテーションマークが付いています。これは「神の霊」という意味を表しています。神の霊、それは聖霊と言ってよいでしょう。その聖霊が、苦しんでいる人のところにやってきて、神様との和解へと導いてくださるというのです。罪ある人間が罪あるゆえにこの世界の中で苦しんでいる、その苦しみを和解へと導いてくださる。言葉に表せないうめきを持って、とあります。ここには神様という存在もまた、私たちと共に苦しんでくださる、そして和解へと導いてくださるというパウロの信仰が現されています。 

 

 そのあとこう言います。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

 

 人の心を見抜く方、それは神様のことですでありますが、神様は、霊の働き、聖霊の働きが何であるかを知っておられると言っています。ここでは三位一体の神様ということが背景にあります。神様、主イエス・キリスト聖霊、この三つは一つである。その中で、言わば、神が、神の思いを知っている、という意味ですから、一見矛盾した言葉ですが、それによって神様の多様な働きということがここで表現されています。 

 

 そして最後にこう言います。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 

 これが今日の箇所の結論になります。神を愛する者たち、御計画に従って召された者たち。その一人ひとりにとって、万事が益となるように共に働くのだ、このような現実はとても苦しいけれども、その背後に神の力があって、すべてを最終的には、万事が益となるように神様が働いてくださるのだと、そのことを私たちは知っている、そのようにパウロは言っています。

 

 以上が、今日の聖書箇所であります。皆様は、今日の箇所を読んで、どのようなことを思われたでしょうか。

 

 私は、最初、今日の箇所を読んだときに思いました。今日のこの箇所は「難しいなぁ」と思いました。まず言葉が難しいです。「被造物」などという言葉が出てきます。普段の生活の中でこんな言葉は使いません。被造物、こんな言葉は聖書の中にしか出てきません。パウロしか言わない、あるいは神学者しか言わない言葉かもしれません。

 

 それに比べると、イエス様は「被造物」なんてことは言いませんね。礼拝で毎週、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を交互に読んでいると、イエス様の語る言葉のほうがわかりやすくて、ずっといいや、と私は思います。パウロの言葉は難しいです。言葉使いだけでなく、内容が難しいです。今日の箇所でも、「被造物は虚無に服している」とか「意思」がどうとか、「服従」がどうとか、なんとか、と書いてあって、これはどういうことが言いたいのか、すぐには伝わってきません。

 

 もちろん、牧師としての私は、聖書の注解書や神学の本を読むことによって、あっ、パウロはこういうことを言っているのか、ということを学び、知り、そしてこうした教会の礼拝説教という形で、教会の皆様と共にわかちあっていく、ということはとても大事だと思っています。

 

 しかしながら、パウロの言葉使いは難しいなぁ、どうしてこんなに、パウロは難しいことを考えていたのだろう、ということを私は思うのです。イエス様の言葉を聴いているほうが、福音書の話を聞いているほうが、わかりやすくてよっぽど良いような気がするのですが、どうしてパウロはこんな難しいことを考えていたのでしょうか。

 

 大体、神の国がいつか現れる、ということは、確かにイエス様もそう仰っておられますが、この科学の発達した時代に生きている私たちにとっては、世界がいつか終わるとか、新しい神の国が現れる、というようなことは、科学的な現実としてはちょっと想像をしがたいところがあります。パウロの信じていたこと、というのと、今の私たちの時代に考えること、というのは、どういうつながりがあるのでしょうか。そのことを私は考えてみました。

 

 もし、パウロの時代にパウロが考えていたことと、いまの時代に私たちが考えることとのつながりが、全くなかったとしたら、もう聖書でパウロの手紙を読む必要はなくなるのでしょう。けれども、そうではありません。それどころか、パウロが今日の箇所で書いていることは、いまを生きている私たちのところの、最も奥深くに入ってきて、私たちの心を叩いてくださる、神様からのメッセージなのです。

 

 私たちは、この8月に広島・長崎の原爆投下、そのことを思い起こす日を迎えます。そして終戦あるいは敗戦の記念日を迎えます。8月がそうした月であることを覚え、日本キリスト教団では8月の第1日曜日を「平和聖日」と定めています。この8月は平和を祈るときであります。それは日本の過去の戦争や植民地支配だけでなく、いま、この世界で何が起きているか、ということを考えるときでもあります。

 

 いま、世界で何が起こっているでしょうか。専制的な国家権力による民衆への支配、抑圧の力が増しています。多くの命が失われています。世界のニュースを見るときに、私たちの心は本当に暗くなります。皆さんの中で、いま生きている、この地球上の世界が希望にあふれていると思える方はいらっしゃるでしょうか。あるいは、今は苦しいけれど、将来はきっと何とかなるよ、と心から思える方はいらっしゃるでしょうか。

 

 私は自分自身、そうしたことを考えてみるのですが、世界というのは、ますます悪くなっいくのではないか、という思いをぬぐいさることができません。徹底した専制国家権力の中で抑圧されていく民衆がいます。国際社会は何をしているのでしょうか。いくらかの圧力をかけることはできても、その国の政治自体を変えることはできません。軍事力を用いて他の国を侵略する、ということをしない、そのことは良いことでありますが、では一方で、軍事力を使わない所で、私たちの国はどうやって平和を作り出していくのだろうか、と考えたときに不安の心に襲われます。

 

 そして、この日本社会、日本の国が世界で置かれている現実、ということを考えると、私たちの心もだんだんと険しくなってくることを感じます。平和ということを言うことに、ためらうようになってきます。どうせ、この世界は力と力の勝負なのだから、私たちも何かをしなければ、と考えて警戒心を高め、いろいろなことを考え、その結果、一体どうなっていくのでしょうか。

 

 そんなふうに私たちの心が険しくなっていく、本当にギスギスしていく、そんな時代であるからこそ、今日のパウロの言葉をしっかりと読んでいきたいと思うのです。パウロは、今日の聖書箇所の最初の所で、こう言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」パウロは、このように言い切っています。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか。

 

 それは、目に見えるものではなく、目に見えないものに希望を持っているからです。私たちが生きている世界はいつも中間の時を生きています。人間だけでなく、世界全体が、自然環境ということも含めて、いつも中間の時を生きています。それは、いつか本当の神の国がこの世に現れて、すべてのことを新しくしてくださる、そこに向けて、そこに向かっている中間の時を過ごしています。ですから、私たちがいま直面している、この世界は絶対のものではないのです。

 

 そして、世界全体が共に苦しんでいるのです。神も共にうめき苦しんでいるのです。なぜ、神が苦しむ必要があるのでしょうか。この世界を創ったのだから、天の上から、そしらぬ顔で見ていたらいいはずの神が、私たちのところに降りてきて下さったのです。イエス・キリスト、という形で。

 

 今日、この世界にあって、神という言葉は、無能という言葉の代名詞であるかもしれません。いくら神を信じていても戦争は起きます。抑圧は起きます。世界は何も変わりません。お金、軍隊、目に見えるものが世界を支配していることは一目瞭然です。こんな世界で神とは一体何なのでしょうか。神とは無能ということの別名ではありませんか。そう言ってもいいほどに、それほどの絶望の中に世界はあります。そして、無能の代名詞とまで言いたくなるほどまでに、何もしてくれない神として、嫌われ、ののしられ、排除されるところに、本当の神がいる、ということをパウロは知っているのです。

 

 人々から捨てられ、十字架に架けられたイエス・キリストが、実は私たちの罪をゆるしてくださる存在であった。みんなが忌み嫌って、捨てたものが、実はみんなの命や生活を根っこのところで支えていた、そのことをパウロは感じ取り、キリスト教の伝道者になったのであります。パウロにとって希望は、目に見えるものではありません。目に見えないものがパウロの希望なのです。

 

 イエス様が私たちをいやしてくださるときに、それは病気のいやしであったり、罪のゆるしであったりする、そのことが福音書には書いてあります。イエス様がそのようにして、私たちのところに来てくださった。しかし人間は最終的に、そのイエスを忌み嫌って十字架に架けた。そこに人間の深い罪があります。その、神と人間の関係のあり方というものは、実は現代の社会においても何も変わっていないのです。まさに人間は罪人であり、平和を求めても得られない、その苦しみの中で人間はもがき続けます。目に見えるものに頼ろうとすることによって、かえって世界は苦しみを増していくのです。そのような世界の中にあって、神の救いというものが到来した、ということを聖書は教えています。パウロは、その神様によって選ばれて伝道者となりました。

 

 いま私たちが生きている世界が、人間の頭で考えるならば、どう見たってこれは絶望に向かっていく世界であります。世界の苦しみは増していく、解決の糸口などどこにもない。そのように思える、本当にギスギスとした、私たちの心を険しくし、カラカラに乾いたものにしていく、この世界の中にあって、いや、希望はあるんだ、と言うのです。

 

 どこにあるんだ、どこに? 目に見えない所に、神にあるんだ、と言うのです。その言葉を聖書から聴くときに、私たち一人ひとりの心が全く新しくされるのです。私たちがこれからの世界にあって生きていくとき、必要なのはこのことなのです。私たち一人ひとりが自分の中で、神様によって新しくされるときに、長い目で見たときに、必ずこの世界は変えられていくのです。その希望を、私たちは、決して捨ててはなりません。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、毎日暑い日々が続いています。その中でいろんなことを考え、体の不調を覚えたり、いろんな不安にかられることも多々あります。コロナ問題もこれからどうなっていくのか、先はまだ見えていません。そんな中にあって、私たちが、神様の愛ということを聖書を通していただき、それを通して、今まで見えていなかったものを、心の目で見ることができますように、どうぞ導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「平和の友、イエスの弟子たち」

 2021年8月15日(日)礼拝説教 今井牧夫

 聖 書   マルコによる福音書 6章 1〜13節 

  (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

  イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、

 弟子たちも従った。

 

 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。

 

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。

  この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

  この人は、大工ではないか。

  マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。

  姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 

 このように、人々はイエスにつまずいた。

 

 イエスは、

 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」

 と言われた。

 

 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、

 そのほか何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

 そして、人々の不信仰に驚かれた。

 

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。

 

 その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、

 ただ履物(はきもの)は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

 

 また、こうも言われた。

 「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。

  しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、

  そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」

 

 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

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 (以下、礼拝説教) 

 本日は、終戦あるいは敗戦の記念日であります。この日にあたり、礼拝で読む聖書の箇所は、マルコによる福音書6章です。5月のころよりの礼拝で、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を毎週交互に読むことによって、聖書のメッセージを深く聴いていきたいと願って、そうしています。本日の聖書箇所はその順番に沿って、この箇所になりました。

 

 本日の箇所を順々に見ていきます。「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」故郷というのはナザレという村でありました。イエス様が育った所であります。イエス様が子どものときから、村のみんながイエスのことを知っていた、そういう所であります。

 

 次にこうあります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。」このように書かれています。

 安息日というのは、一週間に一回、神様を礼拝するための、律法で定められていた日でありました。この日は、すべての仕事を休んで、神様を礼拝すること、お祈りとすること、そのためだけに使う日、神様に献げるための日として考えられていました。その安息日に、あちこちにあったユダヤ教の会堂、そこに集まって人々は礼拝をしていました。そのころの習慣では、会堂での礼拝で聖書を朗読するという習わしがあり、それは誰がしてもよい、となっていたようであります。聖書を読んで、その教えを会堂で語る。そういうことが割と自由にできたようであります。

 

 このときイエス様が久しぶりに故郷に帰り、弟子たちも一緒に来ていました。そして安息日になったので、イエス様が会堂に来て聖書を朗読して、教えられた。多くの人たちはそれを聴いて驚いた、とあります。なぜ、驚いたのでしょうか。そのあとに書いてあります。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。」それはイエス様が語られる言葉がとても深く、知恵に満ちていたから驚いたのです。

 

 イエスが小さい頃から、子どものときから知っているよ、という人が多いナザレの村で、会堂に立つと、イエスがとても深いことを語られた。他の福音書では、権威ある者としてお教えになった、と書いてあります。そのことに人々は驚いたのです。

 

 人々は思いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか」。大工、それは手を使って木の細工をする。棚を作ったり、家を作ったり、いろいろな身の回りのものを作る。場合によれば、この大工という言葉は、石を加工する石工とも言われるそうですが、そうした労働をする人だったのであります。そのような人がどうして、こんなに、聖書を一杯勉強したように、権威ある者のように深みを持って人々を教えることができるのか、と人々は驚いたのです。

 

 そして人々は言いました。「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」村人たちは、イエスの兄弟たちをみんな知っており、その姉妹たちはこの村に今も住んでいるので、イエスの家族がどんな人たちかを、村の人たちはよく知っていました。

 

 こうしたことを人々が言うときに、そこに含まれているニュアンスというものがあります。「みんな普通の人たちじゃないか」……というものでしょう。普通の人である、と言ってよいかどうかわかりませんが、世間の中でよくある家族だったのでしょうか。あるいは、できがよくないと思われていたのでしょうか。それはわかりませんが、だいたいどんな人か、わかっている。そんな人物であるとは思えない。仕事だって大工じゃないか。専門に聖書をそんなに勉強した人にも思えない。そんな人々の思いが、こうしたところから伝わってきます。こうして人々はイエスにつまずいたと書いてあります。

 

 そして、「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほか何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」とあります。

 

 新共同訳聖書では、ここでいったん区切られています。マルコによる福音書において、この6章までの話では、イエス様がいろいろな町や村を巡り歩いて、多くの病人をいやし、そして多くの人々がイエスの話を聞くために集まってきた、そして悔い改めてイエス様に従う人たちがたくさん出てきた。そうしたイエス様の宣教の活動がうまくいっていたことが書いてあります。ところがそこを去って、故郷に帰ってくると、こんな調子でありました。他の町や村ではできていたことが、できなくなった。病人に手を置いていやす、ということも、ごくわずかの人にしかできなかった。その他、「何も奇跡を行うことができなかった」とあります。「人々の不信仰に驚かれた」とあるように、それはイエス様にとっても驚きのことでありました。いったいなぜこんなことになったのでしょうか。

 

 イエス様が育ったナザレの村の人たちは、イエス様のことを非常によく知っていたはずです。正確に覚えていたはずです。イエスがどんな人物であるか、正確な知識を持っていたがゆえに、人々はイエス様を受け入れることができませんでした。

 

 そしてそのあと、今日の聖書箇所の後半です。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあります。
 

 このとき、「イエス様は、どんな気持ちであったのかな」ということを私は思います。自分のふるさとに帰ったときに、楽しい時間を過ごした、というのであれば良かったのですが、楽しくない時間を過ごしたのです。自分を受け入れてくれない故郷、というものを経験し、人々の不信仰に驚いた。しかし、イエス様はそこですっかりいやになってしまって、どこかに引っ込んでしまったのではなくて、「付近の町や村を巡り歩いてお教えになり、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」

 

 イエス様は弟子たちを遣わします。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、ただ履物(はきもの)は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」とあります。最小限のものだけを持って旅をするように言われました。下着を二枚着ることは、当時のぜいたくだと考えられていたことのようです。あるいは、そうした形で最小限のものだけを持って、宣教の旅に出るように、弟子たちを遣わしました。

 

 そして、こう言われました。「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。』しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」

 

 そのあと、こうあります。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」こうして今日の箇所は締めくくられています。

 

 12人の弟子たちは、二人一組になって遣わされ、そして人々に神の国の到来を告げ、その神の国の時代を受け入れるために、人々一人ひとり、自らが神様に対して持っていた罪を悔い改めさせる、そのために宣教をしました。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたのです。 

 

 ここでは、マルコによる福音書において、この6章に至る前のところで、イエス様自身がしておられたことを、今度はイエス様の弟子たちがするようになったということが書かれています。つまり、イエス様が始められた宣教は、弟子たちによって、さらに広がっていったということが示されています。

 

 今日の聖書箇所は、新共同訳聖書の区分けでは、二つの部分に分かれています。今日はその二つの部分を一つにつなげて、皆様と共に読んでいます。聖書というものは元々、新共同訳聖書のように、すべての文章がかたまりごとに分けられて、それぞれに小見出しを付けていた、という便利なものではありませんでした。それぞれの文章ごとに、すべて一つのつながりでした。ですから、福音書を編集した人たちが、この話のあとに、この話を置く、ということの意味を十分に考えて福音書を編集しているのであります。

 

 ですから今日の箇所において、前半が、イエス様が故郷で受け入れられなかったという話であり、そして、その直後に、イエス様が弟子たちをつかわして、さらに宣教が広がっていった、ということ、この二つの話が続いている、ということは大きな意味がある、ということを私たちは知る必要があります。

 

 それはどういうことかというと、イエス様を受け入れない、ということは、イエス様をよく知っているがゆえに、それができない、ということである、そのことがわかる、ということです。前半に出てくるイエス様の故郷の人たちは、イエスを子ども時代から知っている。その家族も知っている、みんな知っているよ、と言って正確な事実を知っている人たちです。そうした、イエスを実際にこの目で見ている、子どものときから知っている、という実体験を持っている人たちは、イエスを受け入れることができなかった、ということであります。つまり、信仰というものは、事実を受け入れるということではない、ということです。

 

 私たちのふだんの生活では それが信じられるか信じられないか、ということを問題にするときに、それが事実であるかどうかをまず問題にします。それは科学的なものの見方という意味では正解です。生活の中で、それが事実であるかどうかを確かめる、それはとても大切な姿勢です。けれども一方で、信仰ということを考えるときには、また考える角度が違ってくるのです。事実というものをよく知っているから、受け入れられない真理がある、ということであります。

 あのイエスが、こんなふうに、聖書について深みを持って教えることができるはずがない、イエスが特別な人であるはずがない、と思っている人たちは、イエス様の言葉を素直に聴くことができませんでした。するとどうなったのか。いやしの奇跡が、ほとんど起こることがなかったのです。つまり、そこには出会いというものが生まれなかったのです。神の言葉との出会いというものが生まれなかった。そのために、神の言葉が働かなかったのです、この故郷の人たちの中にあって。

 

 神の言葉を信じる、あるいは神の言葉の働きを信じる、ということは、事実というものだけを信じることではなく、事実の上に立って今、目の前に起こっている、そのことを信じる、そこに元々知っている事実を超えて、神様が与えてくださる恵みがあるということです。

 

 そしてイエス様は、自分を受け入れてくれなかったこの故郷を出て、故郷で出会ったのではない、別々の所で出会ったイエス様の12人の弟子たちを、二人一組にして、町や村に遣わしていきました。イエス様は、自分を受け入れてくれない故郷、つまり現実に出会ったとき、意気消沈するような現実に出会って、そこで宣教をやめるのではなくて、逆にそこから大きな宣教へと踏み出していかれたのであります。

 

 そして、ここからは、イエス様お一人が頑張って宣教をするのではなくて、イエス様に遣わされた弟子たちが宣教する、つまり新しい仲間たちが、力を合わせて宣教する、その方向に向かいました。

 

 人間の目で見て、故郷でのこの出来事は、イエス様にとって大きな失望であったと思います。しかし失望したから活動をやめるのではなく、逆にそこから全く新しい活動が生まれていったということを教えています。イエス様は12人を二人一組で遣わされました。それは、イエス様が弟子たちが二人ずつにバラバラにしたということです。多い人数からより少ない人数になり、しかし、その少ない人数で宣教することによって、さらにイエス・キリスト神の国の福音が広がっていきます。

 

 故郷の村でたくさんの人から受け入れられなかったイエス様。しかし、そこから、イエス様の活動が、さらに新しい働きへと少人数で遣わされていきます。人数が少なくなることは、悪いことではないのです。そのことによって自由闊達に旅をし、心ゆくまで、イエス・キリスト神の国の福音を宣教できるようになったのです。しかも、その旅は、自分たちの生活のためのいろんな支えや予備のものを持つのではなく、最小限のものを持った身軽な旅でした。なぜそれができたかというと、必要なものは、行った先で着るものも食べるものも与えられるという信仰があったからです。そして実際にそうなりました。

 

 こうしたことは、当時のパレスチナ地域において、そうした生活をする放浪の宣教者たちと呼ばれるような人たちがすでにいた、という地元の習慣があったようです。日本で同じことができるかといえば、うーんと迷ってしまいますけれども、ここでイエス様が言われていることは、単に土地の習慣でそういうことができたということだけではなくて、本当に人間が自由になって、自分がしたいことをするときには、行った先で必要なものはちゃんと支えられる、ちゃんと仲間が与えられる、そういうことを示している、という意味では、今日の日本社会でも同じことが言えるのではないでしょうか。

 

 そして、さらにイエス様はこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」これは、自分を受け入れてくれる仲間が見つかったら、その人を大事にし、ずっとその人の家にとどまりなさいと言われます。つまりこれは、あっちの家のほうが待遇がいいからそっちに変わろうか、とか都合のよいことを考えるのではなくて、最初に受け入れてくれた、その人の善意を大切にしなさい、その人と共に歩みなさい、ということを言っておられます。

 

 次にこう言われます。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」

 

 つまり、受け入れてくれない所があったら、そこを出て、足の裏からパラパラッとほこりを払い落として立ち去ったらいいよ、と言われるのです。こうしたイエス様の言葉を、皆様は読んで何を思われるでしょうか。私は子どものとき、こういう箇所を読んだとき、イエス様はちょっと冷たいなあと思った記憶があります。すべての人に福音を伝えるはずの、イエス様がこう言われるのは、イエス様は冷たい、ちょっと冷たいのでないかなと、なんだか聖書に矛盾を感じるような思いもしたことがあります。

 

 しかし子どものときから何十年も経って、今この箇所をあらためて読むときに私が思うことは、イエス様はこう言って下さったということは、イエス様が現実をしっかりと見ておられたということだと理解します。つまり、どんなに良いことであっても、それをすべての人から受け入れられることではない、ということです。相手にしない、受け入れない、そういう人たちは必ずいらっしゃいます。そういう人たちを責めるのではなくて、黙ってすーっと立ち去ったらよいのだと。

 そして、足の裏のほこりを払い落とす、というのは、これはどういう意味があるか、様々な解釈があるようですが、私の解釈としては、もう私は、ここの人たちに責任を持たなくもいいのだ、ということの証明とする、ということです。つまり、私の言葉を受け入れてくれた人には私は責任があるけれども、私の言葉を受け入れてくれなかったのなら、私の責任はここにはない、ということを示すしぐさです。

 

 こういう言葉は、冷たい言葉に見えて、冷たくないと私は思います。私も伝道者のはしくれになって、思うことでありますけれども、世界のすべての人間に対して責任を負うということはできないのです。受け入れてくれない人がいる。これは当たり前のことですが、それが社会の現実です。そういうときに、そんな人にも、すべての人にも責任を負って、と考えることは、ものすごく苦しいのです。というのは、人間はできることが限られているからです。受け入れられなかったら、もう黙ってそこを立ち去って、もう私はここに責任を持てないということを、神様にゆるしていだたいて、そして、他の人に関わる、その道を求めていくことになります。

 

 それは、冷たいということではないのです。人間には必ず限界があります。もう死ぬまで、すべての人に理解されるために、働け働け、とはイエス様は仰られないのです。だめだったら、すーっと立ち去ったらいいよ。責任を負わなくっていいよ。そんなことは誰にだって無理なんだから。イエス様自身からそう示されたからこそ、イエス様の弟子たちは心を楽にしていただけたと思います。こんなイエス様から遣わされたからこそ、12人の弟子たちは出かけていって、神の国の福音を人々に宣べ伝えることができたのであります。

 

 今日のこうした聖書の箇所を読んで、皆様は何を思われますでありましょうか。私は、終戦祈念日であるこの日に、この聖書の言葉を読むときに、いろいろなことを教えられました。平和ということを語るときにも、世界のすべての人から受け入れられるわけではありません。なぜ、受け入れられないのか、それは人々が事実ということをしっかり見ているからであります。こんな事実がある、こんな歴史がある、こんなことがある、いろんなこと、その事実を知っているからこそ、神の国の福音が受け入れられないのです。

 

 現実はそんなもんじゃないんだぞ! 現実は厳しいんだぞ! と言って肩を怒らせて、険しい顔で、甘いこと言うな! と言って大声を出しているうちに、私たちは神様の言葉を聞き逃してしまうのです。

 

 平和を作り出すことがいかに大切であるか、それがいかに夢物語に見えても、しかし、平和を求める、という祈り、そこには必ず神様が味方してくださる流れがあるのです。いくら言っても、誰も聞いてもくれないかもしれない、この世界の中にあって、それでも平和を願い、そのために提案し、そのために努力すること。それは、仮に多くの人から受け入れられなかったとしても、神様の側に立つことであります。

 

 イエス様が自分の故郷で、受け入れられず、大きく落胆したところから、新しい活動に大きく踏み出していかれたように、私たちも、平和という言葉が受け入れられないような、この悲しい世界の現実の中で、新しい働きへと送り出されていくのであります。

 

 12人が2人ずつで遣わされました。もともと少ない人数が、さらに少なくなる。それでも怖くないのです。なぜならば、その二人組には、いつもイエス様が一緒におられるからです。そして、受け入れられなかったところから出発して、未知の旅へと出て行く、最小限のものを持って行く、それは自由に生きていくということであります。

 

 本当にしたいことをするために、自由に生きていく、最小限のものを持って。すると、行った先で必ず支えてくださる仲間ができます。その仲間を大切にして歩んでいく。そして、もし受け入れられなかったら、黙ってそこから立ち去ったらいいのです。世界のすべてのことに、すべての人に責任を持って関わることは誰にもできない。しかし、できる範囲のことを神様に導かれてしていこう、平和を宣べ伝える者となろう。

 イエス様から遣わされるとき、私たちはそのことができるようになるのであります。イエス様の弟子たちは、平和の友として遣わされたのでありました。私たちもまたそうであります。

 

 お祈りします。

 天の神様、私たちをとりまく世界の情勢が本当に悪くなり、どの国を見ても悪い材料ばかりが満ちあふれ、平和への願いを断念せざるをえないような、そんな気がするときもあります。しかし、その中にあって私たちは、祈るということを神様から教えていただいています。そこから世界のすべてが変わっていきます。どうか、この世界を神様ご自身が造り替えてください。そして今、大雨によって、各地に不安が広がり、被害が現れています。どうか神様、お一人おひとりの命と生活を守ってください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して、神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

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「平和から引き離されない」

 2021年8月22日(日)礼拝説教 今井牧夫


 聖 書  ローマの信徒への手紙 8章 31〜39節

 (以下は、新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

 もし神がわたしたちの味方であるならば、

 だれがわたしたちに敵対できますか。

 

 わたしたちすべてのために、

 その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

 御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

 

 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。

 人を義としてくださるのは神なのです。

 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。

 

 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、

 神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 

 だれが、

 キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。

 艱難か。苦しみか。迫害か。

 飢えか。裸か。危険か。剣か。

 

 「わたしたちは、あなたのために

  一日中死にさらされ、

  屠(ほふ)られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。

 

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、

 わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をも収めています。

 

 わたしは確信しています。

 

 死も、命も、天使も、支配するものも、

 現在のものも、未来のものも、力あるものも、

 高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、

 わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、

 わたしたちを引き離すことはできないのです。  

 

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 (以下、礼拝説教) 

 

 5月のころより、京北教会の礼拝では毎週、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を交互に読んでいます。主イエス・キリストの福音を伝える福音書と、その恵みを伝える使徒パウロの手紙の言葉と、その両方を交互に読むことで、聖書のメッセージ全体を深く受け止めていきたいと願っています。本日の箇所はローマの信徒への手紙8章からです。

 

 先週の礼拝では、マルコによる福音書で、イエス様が故郷のナザレの村で歓迎されなかったこと、そしてそのあとから12人の弟子たちをイエス様が様々な町や村に遣わして、病人のいやしや罪のゆるしの宣教を行わせたことによって、神の国の福音が各地に広がっていったことが記されています。そうしたイエス様のお働きを思いつつ、本日の箇所を読んでいきます。

 

 順々に見ていきます。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」

 

 こうした言葉で今日の箇所は始まっています。今日の箇所は、長い手紙の中の一部分であります。ここで「これらのこと」と書いているのは、この直前の箇所では、神様が主イエス・キリストを遣わして、一人ひとりの人間をすくって下さった、その恵みは私たち一人ひとりから離れることがない、素晴らしいものであることをパウロは語っています。そして、そのあとに、「では〜」と今日の箇所を書き進めているのです。

 

 そして次に言います。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」

 

 私たちにとってもはや、本当の敵というものは存在しない、と言うのです。神様がすべてを守って導いて下さるから、本当の敵というものはもうない、誰も私たちに打ち勝つことはできない、と、そのようにパウロは言っています。

 

 次にこう言います。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

 

 わたしたちすべてのために、つまり、すべての人間のために、神様が、神の独り子イエス・キリストをさえ、惜しまず死に渡された、それはイエス様が十字架に架けられて死なれた、ということを指しています。そしてその死によって、人間一人ひとりの神様に対する罪をすべてゆるしてくださり、そしてイエス様と一緒に、すべてのものを私たちに賜ってくださるのだと言います。

 

 神様からの恵みのすべてがイエス・キリストの十字架、そして復活、そして今イエス様を信じてイエス・キリストと共に生きる、ということを通して、必要なことをすべて与えてくださると、パウロは信仰を書き記しています。

 

 その次です。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」

 

 もはや私たちは、すべて罪ということから解放されている。だから誰も私たちを訴える人はいない、という強い自信というものが伝わってきます。

 

 さらに言います。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

 

 神様は私たちをしっかりと守って救ってくださる、そして、イエス・キリストが私たち一人ひとりのために、神様のために執り成してくださる、と言います。ここで言われる「執り成し」ということは、和解ということを示しています。

 

 聖書が言われている罪とは、いわゆる犯罪とか、道徳的な問題のことを言っているのではなくて、神様のほうを向かずに生きてきたこと、神様との関係がまっすぐではないことを言っています。私たち一人ひとりと、神様の関係がまっすぐでなかったこと、そのことについて、人と神の間にイエス・キリストが立ってくださって、執り成してくださる、和解をさせてくださる、そのことによって、私たちの罪がすべて清められ、神様との関係が回復され、一人ひとりが、本当に自分がなるべき自分になることができる、そうした信仰がここに記されています。

 

 そして今日の聖書箇所の後半に入ります。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」

 

 誰も、キリストの愛、和解させてくださる愛から、私たちを引き離すことはできない、というのです。艱難、それは大きな困難のことであります。そして、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣……と、ここに書かれているのは、いわゆる暴力の危険とか、あるいは、飢え、裸、つまり食べるもの・着るものがないという欠乏です。そして苦しみ、迫害など、ここには、そうした言葉が並べられています。しかし、そうしたいろいろなことがあるけれども、誰も、イエス・キリストの愛から私たちを引き離すことはできない、という、その確信が言われています。 

 

 そのあと、今度は旧約聖書から、詩編44編の引用が記されています。

 「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠(ほふ)られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。」

 

 この旧約聖書詩編44編に書いてあるように、私たちというものは、屠られる、つまり命が奪われる羊のように人々から見られている、犠牲になるもののように人々から見られている、と書かれているように、そのような危機に直面している……「しかし」、と次に続きます。

 

 「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をも収めています。」

 

 いろんな困難があるけれども、神様が私たちを守ってくださる、その信仰が記されています。そして今日の箇所の最後には、次のように締めくくられています。

 

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。

 

 ここで、死と命ということは、私たちの存在のすべてということを指しています。天使というのは、神様が造られた、神様の使いということを示しています。支配するもの、現在のもの……と、このあと続いていくものは、神様が作られたすべてのもの、一番最後に「被造物」とあるように、この世界にあるものは、どんなに恐ろしく見えたとしても、どんなに素晴らしく見えたとしても、どんなに怖く見えたとしても、力強く見えたとしても、みんな神様がお造りになられたものである、だから神様以上のものではない、ということを言っているのです。

 

 この世界の中で、どんなことがあったとしても、未来のものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、すべて神様が造られたものであるからには、神様以上のものではない、だからそうしたものが、主イエス・キリストによって示された神の愛、神と和解させてくださるという、その愛の力から、私たちを引き離すことはできないのです、とパウロは言っています。

 

 以上、これが今日の箇所です。皆様は何を思われたでありましょうか。

 

 聖書の言葉使いは時々、難しいな、と思いますし、また、こうしてパウロの言葉を読んでいますと、パウロの言葉の力強さということを受け止めるとしても、どうしてパウロという人は、ここまで神様を信じることができたのだろう、どうしてここまで、イエス・キリストが素晴らしいと、共にいてくださると、そう思えたのだろうか、と、ちょっとそういう、冷めた思いになるかもしれません。

 

 聖書の言葉の中には、信仰があふれており、また、神様からのメッセージがあふれていますけれども、私たち一人ひとりは生身(なまみ)の人間ですから、いろいろな自分自身の心の状況というものがあります。それぞれに暮らしているなかで、生活の状況というものがあり、いろんなことを思って毎日生きています。そんな生身の人間である私たちが、聖書を読んだときに、そう素直に単純に「ああ神様って素晴らしいなあ、この通りだなあ」と思えるときもあるかもしれませんが、「そんなこと無い、何も思わない」、そういうときも多いのではないかと思います。

 

 そんな私たちに、今日、神様が下さっているのが、今日の箇所の言葉です。皆様は、「こんなふうに、パウロのような信仰がありますか」、あるいは、「そんなパウロのような信仰がほしいです」か、と聞かれたら、いやあ、そんな信仰はありませんし、そこまでの信仰というものが自分のものになるような気もしない、というような、なんかそんな、あやふやな気持ちでおられる方も多いのではないでしょうか。

 

 今日の箇所を読みながら、私は、いろいろなことを思い起こしておりました。

 

 いま、ミャンマーで起こっていることを、私は大変心配をしています。ミャンマーで起こっていること……それは、軍事政権が人々を支配し、抑圧することであり、その混乱は終わっていません。問題は拡大するばかりであります。ミャンマーの混乱が起きてきた後、私はこの問題がとても気になって、インターネットなどで様々なニュースを見ておりました。その中で、ミャンマーで苦しんでいる人たちを支援する団体の記事を読んでいたときに、そこに、ミャンマーに生きている、ある一人の青年から送られてきたメッセージが文章として掲載されていました。

 

 その青年の手記には、こうありました。軍隊によって抑圧されているのだけれども、ミャンマーの人たちはみんな希望を持って生きている、と。現実はすごく大変で、多くの仲間の命が失われて大変なのだけれど、それでも希望を持って生きている、とその青年が書いた文章の中に、次のような一節がありました。「聖書を読んでいるから大丈夫です。」その一言がありました。

 

 その記事は、キリスト教のことを伝えるための記事ではなくて、一般のミャンマーの情勢を伝えるニュースの中の一部分だったのですが、その青年が、自分で書いた手記の中にあった、「希望を持っています」「聖書を読んでいるから大丈夫です」という青年の一文を読んで、私の心は、何かぎゅっと締め付けられるような思いになりました。

 

 というのは、外の世界から見ていて、日本の国に生きる私の目から見て、ミャンマーの状況は絶望的な状況に思えたのであります。しかしその中で、自由のために生きようとしている青年がいる、そして、その青年は「聖書を読んでいるから大丈夫です」と言っている、その文章を読んだときに、なんとも言えない気持ちに私はなりました。

 

 そして、また別の国のことでありますけれども、香港で今、多くの人たちが苦しんでいます。最近読んだ、香港のことについて書かれた本の中にこんなことが書かれていました。香港にある中学・高校の半分以上が、いわゆるミッション・スクール、キリスト教精神の学校であるということです。歴史的な経過があってそうなっているのですが、そのことを読んだときに、ふと私は思いました。香港でデモなどの民主化活動をして闘ってきた、若い人たちの半分以上が、中学・高校で聖書の言葉を聞いてきた若者たちなんだ、ということです。

 

 もちろん、香港の教会にもいろいろな意見があり、ミャンマーでもそうであります。ミャンマーは仏教国と言われています。その中でどうして青年が聖書を読む機会があったのかわかりませんが、そうした機会があったのでしょう。香港でも、たくさんの人たちが聖書を読んできた、その中で人々は自由に生きようと願っています。しかし、どちらの国・地域も、外から見たときに、この日本の国に生きる者の目から見たときに、状況は極めて悪く、絶望的な状況にも思えます。

 

 いま、アフガニスタンはどうでありましょうか。目を覆うような状況が繰り広げられてます。そうした、その時々にトピックスとして世界中の注目が集まる地域だけではありません。アメリカの国内ではどうでしょうか。中国の国内ではどうでしょうか。アフリカでは、アジアでは、ロシアでは、パレスチナイスラエルでは、と、いくつもの国のことを数えることができます。そして私たちが生きている日本の国にあっても、経済の格差など様々な問題があります。

 

 どこの地域にあっても、そこで生きようとする人間が抑圧の中で苦しんでいます。苦しめられています。どの国にも、それぞれの問題の程度の差があり、政治体制の違いがありますが、しかし、それぞれの状況の中で、人間は、いったいどうやって生きていったらいいのだろう、何に希望を持ったら良いのだろう、と考えると、私は気が遠くなりそうな気がします。

 

 そんな思いの中で、今日の聖書箇所、ローマの信徒への手紙の8章を読むとき、ここには何が書いてあるでしょうか。

 

 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」

 

 このように書いてあります。ここに、キリスト教のメッセージ、聖書のメッセージがあります。この後に書いてあることも含めて、一つひとつの言葉が、希望であり、抑圧や様々な困難の中で生きる人間に対して、イエス・キリストが共に生きてくださるから、誰も、私たちにとって本当の敵ではない、そのことが示されているのであります。

 

 現実には、苦しみがあり、迫害があり、欠乏があり、暴力の危険があり、「一日中死にさらされ」とある旧約聖書の言葉が、パウロの時代にも当てはまったように、現代の私たちの世界にも当てはまっているのです。

 

 しかし、「すべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって、輝かしい勝利をも収めています」とパウロは言っています。

 

 そして今日の箇所の最後に、パウロはこう言っています。「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 

 どんな抑圧の力も、神の愛から私たちを引き離すことはできないのであります。

 

 今日の聖書箇所を、何の解説もなく読んだときには、私たちの心は、この聖書箇所に書かれている言葉を、素直に受け入れることは、中々できないかもしれません。というか、ピンとこないかもしれません。けれども、いまの世界の情勢を考えながら読むときには、まさに、今日の言葉の一つひとつが命の言葉であり、死に瀕している人たちの希望であり、そして、いま日本の社会に生きている私たちにとっても、この一つひとつが、世界の人たちとつながっていく、連帯の言葉、希望の言葉であり、今日一日、私たちが何を持って生きるべきか、何を祈るべきか、という指針を与えてくださる言葉です。

 

 神の愛、あるいは神の言葉、ということを聞くときに、私たちはそれを何も考えずに聞くときには、それらの言葉がキリスト教という宗教の中の言葉であり、キリスト教を信じるか信じないか、ということだけが問われているように、勘違いをすることもあります。聖書が言っていることは、そんなことではありません。

 

 神の言葉というものは、平和を連れてきます。神の言葉は、平和を連れてきます。神の言葉は、平和と一緒なのです。神の愛から引き離されることがない、ということは、平和から引き離されることがない、ということを示しています。現実がどんなにつらくても、私たちは平和から引き離されることはない、というのです。どんな人間が、あるいはどんな力が、私たちから、神が与えてくださる平和を引き離そうとしても、神の側が、決して引き離されないでいてくださるので、大丈夫なのです。神の国が、いま、一人ひとりの抑圧されている方々と共にいてくださるのであります。

 

 今日の箇所の始めのほうで、こう言われています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ここでパウロは「すべてのものを」と言っています。平和、愛、自由、生きる権利、家族、生活、経済、社会、いろんなことのすべてを、神様は、御子イエス・キリストと共に、私たちに与えてくださるのです。


 今日の箇所において、あるひとつの宗教であるキリスト教を信じるか信じないか、という問題が問われているわけではありません。一人ひとりの人間が、平和から引き離れない、そのためにイエス・キリストは十字架で死なれた、そして復活なされ、一人ひとりの人間と共にいてくださる、そのことをパウロはここで宣言をしているのであります。

 

 私たちが今日、現代の日本社会の中で、聖書を読むとき、こうしたパウロの言葉を読むとき、それはある宗教の経典、あるいは古代に書かれた書物の一部分を読んで、勉強をしているということではありません。

 

 この世界の中にあって、見放されているように思える、苦しんでいる一人ひとりの人たちの中に、神が来てくださる。神の言葉と共に、平和がその人と共にある。神の平和は決して、その人から引き離されない。だから希望を持つことができるのだと、そのメッセージを、私たちは世界の人たちと、この聖書の言葉を読むときに、共有をするのであります。

 

 もちろん、現実世界は大変厳しいものであります。「どこに希望があるのか、どこにもないではないか」ということは簡単です。それは、とても簡単なことです。「ああ、希望なんか、めったにないですね」、「先行きは暗いですね」、といくらでも言うことができるでしょう。

 

 けれども、その現実の中に生きている一人ひとりにとっては、違うのです。平和から引き離されない、という、何かの思いが、その人の中にずっと生き続けるのです。その思いを信じ、その思いに連帯し、祈る者でありたい、そのように願います。

 

 お祈りをいたします。

 天の神様、8月にあたり、平和について考えるときが与えられていますことを感謝いたします。いま世界の現実の中で起きていることを、簡単に評論することができず、ただ、言葉を失うような日々でありますが、その中にあって最後の最後まで努力して生きようとしている、お一人おひとりを思い、私たちもまた祈る者とならせてください。そして、この日本社会の中にあって、イエス・キリストの福音を高く掲げ、この世界の中にまことの平和をもたらす言葉として、宣べ伝えていくことができますように、教会の伝道と礼拝、そして奉仕の働きを導いてください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。

 

 

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「雨も雪も、むなしく天に戻らず」

 2021年8月29日(日)礼拝説教 今井牧夫

 聖 書  イザヤ書 55章 8〜12節 (新共同訳より抜粋、改行して配置)

 

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

 わたしの道はあなたたちの道と異なると

   主は言われる。

 

 

 天が地を高く超えているように

 わたしの道は、あなたたちの道を

 わたしの思いは

   あなたたちの思いを、高く超えている。

 

 雨も雪も、ひとたび天から降れば

 むなしく天に戻ることはない。

 

 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ

 種蒔く人には種を与え

 食べる人には糧(かて)を与える。

 

 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

   むなしくは、わたしのもとに戻らない。

 

 それはわたしの望むことを成し遂げ

 わたしが与えた使命を必ず果たす。

 

 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち

 平和のうちに導かれて行く。

 

 山と丘はあなたたちを迎え

   歓声をあげて喜び歌い

 野の木々も、手をたたく。

 

  

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 (以下、礼拝説教) 

 

 本日の箇所は、旧約聖書からです。今まで半年近く、新約聖書から説教をしてきたので、久しぶりの旧約聖書からとなります。この数ヶ月、マルコによる福音書とローマの信徒への手紙を毎週交互に礼拝で読んで参りましたが、それに旧約聖書を読むことも合わせていきたいと考えました。本日の箇所はイザヤ書55章です。

 

 旧約聖書の中にあるイザヤ書は、紀元前6世紀のころの話が収められています。それは、ユダヤ人の国が、その時代に圧倒的な軍事力を持っていた大国バビロニアに、戦争で敗れた時代の話です。戦いに敗れて、ユダヤの国の中心的な人たちは、みんなバビロンの都に連れて行かれました。その大きな苦しみを味わった時代のことが書かれています。

 

 このとき遠い国に連れて行かれた人たちを「捕囚(ほしゅう)」と言います。捕らわれの囚人ということです。囚人といっても牢屋に入れられるわけではなく、仕事も生活もできるのですが、その生活がバビロンの国に閉じ込められていて、自分たちのためではなく、バビロンの国のために生きることが強制されるわけです。このバビロン捕囚と呼ばれる時代は50年間続きました。

 

 遠い国に連れて行かれてから50年経った後に、今度は別の大国、ペルシャバビロニアを征服しました。そのペルシャの新しい政策によって、ユダヤの人たちはかつて生活していた地域に戻ることができるようになりました。しかし、この捕囚の50年間というものは、ユダヤの人々の心に、決定的な影響を与えました。それは、自分たちが本当の神様への信仰から離れていたから、こんな目にあったのだ、という考え方です。つまり自分たちが神様に対して不信仰だったことを、神様がお怒りになられたから、その罰として、自分たちはバビロンの国に支配され、捕囚という苦しい目にあったのだ、という考え方になったのです。

 

 そのため、この捕囚の時期を通して、自分たちの不信仰を悔い改めて新しく生きることを、人々に伝える預言者たちが登場しました。その一人がイザヤという預言者です。聖書に登場する預言者とは、現代で言われる予言者、つまり未来を予想する言葉を告げる予言者とは違い、神様からの言葉を預かって人々に伝える預言者、というものです。預言の預は預けるという字です。

 

 本日の聖書箇所は、イザヤという預言者の言葉です。ここには、神様の言葉は、決して無駄に終わらない、ということが表現されています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。」とあります。本日の説教題は、この聖書箇所の言葉を用いて、「雨も雪も、むなしく天に戻らず」と題しました。

 

 では、今日の箇所を最初から順番に見ていきます。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。/天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」

 

 ここには、神様は人間と異なる存在であり、神様の思いは人間の思いを高く超えていると言われています。人間は、自分が考えるレベルに合わせて、神という存在を考えてはいけないのです。人間は神様という存在を、自分たちの想像力で作り出したイメージだと錯覚しているときがあります。どうせそれは空想だ、と。そして、どうせ空想だから、どのように扱っても、おもしろければ許される、と考える傾向が日本社会にはあるのではないかと思います。それは間違っています。神様の道はわたしたちの道を高く超えているからです。

 

 その次の箇所は、本日の箇所の中心となる御言葉です。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧(かて)を与える。」

 

 ここで、雨と雪という言葉が出てきます。雨も雪も天から降ってくるものです。聖書が書かれた時代の人たちは、大空の上にたくさんの水が貯められていると考えていました。旧約聖書の創世記の1章に天地創造の物語がありますが、そこでは、神様が、大空を造って、そして「大空の下と大空の上に水を分けさせられた」、つまり空の上の水と、空の下の水、と上下二つに水を分けられたと記されています。そして空の下の水はこのあとに海になります。そして、天の上、空の上には、たくさんの水が神様のもとに蓄えられていて、そして天の窓が開いたときに、そこから雨や雪が降ってくる、と考えられていたのです。

 

 天の窓が開かれるのは、単なる自然現象と考えるのではなくて、神様の御心によって開かれると信じられていました。その時代の人たちは、雨や雪が最終的には海や湖に流れ込み、そこから蒸発してまた空に戻っていく、という現代の科学に基づく考えを持っていませんでした。けれども、それゆえに、この大空の上には豊かなたくさんの水が神様のみもとに蓄えられている、その神様を信じて祈り、神様の造られた自然の中を、神と共に皆で生きていく、という感覚が育まれたのです。

 

 そして、その雨や雪は、「ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧(かて)を与える」とあります。雨や雪というものが、単なる水分、とか単なる飲み水、というだけでなくて、大地を豊かにし、植物を生やし、人間に植物の種を与え、人間に食べるものを与える、という、この世界の中にある自然そして人間の命を育む力として記されています。

 

 次にこうあります。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 

 ここには、神様から人間に与えられる恵みは、自然を豊かにし、また人間の命を育むものであり、それは決して無駄に終わらないということが言われてます。

 

 雨も雪も、一度降れば、それがそのままの形で、天に戻ることはないのは当たり前のことですが、その当たり前のことを言うことで、神様の言葉は、神の口から出たあと、何の役にも立たずに神様のもとに帰ることはない、ということが言われています。

 

 そして最後は喜びの言葉で締めくくられています。「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く。/山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。」

 

 以上が本日の聖書ですが、この箇所を読んで皆様は何を思われたでありましょうか。人が思うことは様々ですが、私はこの箇所を読んだときに、ここで雨や雪の働きと同じく、自然そして人間に命を与える働きをするものと言われている「神の言葉」とは何だろうか、と考えました。

 

 神の言葉、それはまず、聖書の言葉ということができます。また、神様から人間一人ひとりの心の内に示される、私たちのこころの内なる言葉とも言えます。しかし、この箇所を読んでいて私が思いましたのは、神の言葉、それは主イエス・キリストである、ということです。

 

 それはなぜかというと、今日の箇所にある言葉で「むなしく天に戻ることはない」という言葉を読んだときに、私がイエス様のことを思い起こしたからであります。イエス様は、福音書使徒言行録によれば、十字架の死の三日後に復活なされ、そして天に挙げられたとあります。天の神様のみもとに帰って行かれました。最終的に天に挙げられたイエス様の生涯というものは、むなしい生涯ではなく、神様の救いをこの世界に伝える大きなお働きでした。しかし、それは人間の目にはむなしい十字架の死として受け止められただろうということも思うのです。

 

 現代人の立場から見て、聖書に記されたイエス様の生涯はどんな意味があるでしょう。もし、最後に十字架に架けられて死なれた人というだけならば、それはむなしい死に思えます。そこから考えると、聖書の言葉や、イエス様の生涯ということも、その意味を私たちが受け入れることができないときには、天から降ってきたけれど、何の役にも立たずに天に戻っていく雨や雪にたとえられるかもしれません。あるいは、ただ地面に落ちて流れて消えていく雨水のように思えるかもしれません。

 

 そのようにして、教会というものが、聖書というものが、何の役も果たさずに、ただ流れていく雨水のように、いつかどこかに流れて消えていくだけだとしたら、どうでしょうか。私は思います。教会はかわいそうだ、と。聖書がかわいそうだ、と。キリスト教というものが、本当にかわいそうだ、と思います。

 

 そして、そのことを思うときに、私は思います。もしそうならば、教会で一番かわいそうなのは、主イエス様だと。イエス様は、人々から捨てられ、十字架に架けられて、そこで命を落とされました。そのイエス様の十字架と復活の生涯が、もし世界にとって何の意味もなかったら、それは本当に「かわいそう」なことであると思います。

 

 「かわいそう」という表現は、私たちの普段の生活の中であまり多くは使わない言葉です。というのは、それは、へたをすると人を見下げた言葉使いにもなるからです。

 

 けれども、私はふと思い出しました。ある牧師がこんなことを言っていたのです。小さい子どものとき、キリスト教主義の幼稚園に通っていた。その幼稚園で卒園式のときに、紙芝居で見たのが、イエス様の十字架のお話だった。その紙芝居を見たとき、十字架に架けられて死なれたイエス様が、かわいそうでしかたがなかったと。そして泣いたと。幼稚園の子どもは、そんなふうに純粋に、イエス様をかわいそうだと思って、泣くことができたのです。そして、そのかわいそうなイエス様をずっと見てくださっている神様の愛を教えられたのです。


 本日の説教の最初に、このイザヤ書の物語が記された時代は、ユダヤの人たちが大きな国に侵略されて国が滅ぼされて、多くの人が捕囚とされて遠い国に連れていかれた時代だと申し上げました。それは、他人の目から見るとまさに「かわいそう」な状況でした。しかし、戦争に敗れて、自分たちの国の形も、歴史も、すべて変えられてしまった時代に、自分たちに何が残っているのかと考えたときに、天から降ってくる雨や雪は、国が滅ぼされる前と変わらず自分たちに降ってくる、ということに気がつきました。それと同じく、神の言葉の恵みは、目に見えないけれども、以前と変わりなく自分たちのところに降り注いでいるということを、人々は感じていたのです。

 

 イザヤ書の時代だけではありません。また、イエス様の時代だけではありません。現代に生きる私たちにも、「かわいそう」と思える現実があふれています。そのことを思うときに、私は思います。この、かわいそうな現実の前で、神は何を考えておられるのかと。そして、神様に祈るしかない自分に気がつきます。かわいそうなことというのは、戦争など国際社会のことや、他人において起こることだけではありません。実は今ここにいる、私たち自身がまさに「かわいそう」ではないのか、と。つらい現実の前で自分がどうしたらいいかわからなくて、神様に祈るしかない、私たち一人ひとりこそが本当は一番「かわいそう」ではないのか、と思います。そのような私たち一人ひとりを神様は愛してくださっている、ということが聖書のメッセージです。

 本日の神様の言葉が響きます。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧(かて)を与える。/そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 

 お祈りします。

 神様、私たちがいまのコロナ禍の時代において生きていること、そして、私たちの教会が礼拝をしていること、みんなで祈っていること、これらのことが神様の御心から出た働きとされて、神様によって用いられ、この世界の中に神の愛を示す働きとして用いられますように、どうぞ神様の聖霊によってすべてのことをお導きください。

 この祈りを、主イエス・キリストのお名前を通して神様の御前にお献げします。

 アーメン。