京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

8月9日(日)のこと

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             <きょうほく・きょうかい>

「虹の架かる教会」京北教会ブログ

2015.8.9

 「8月9()のこと

 
本日の記事は、

この下の、数枚の写真の後にありますので、

ずっと下方にスクロールしてご覧下さい。
 

 
 以下は、過去(2010)のブログを読むときに便利な方法
 (パソコンで見る場合のみです。スマートフォンでは表示されません)
 
 ブログの右の欄の「ここ2ヶ月のブログ」という文字を、
 クリックすると最近の約2ヶ月分のブログが出てきます。
 
 右欄の中にある、「教会の四季や日常の歩み」「説教の断片など」
 「クリスマスシーズン」「京都教区の諸教会などへの訪問記」、
 などの各項目の文字をクリックすると、過去のブログを、
 それらのテーマ別に分けて読むことができます。
 
 右欄の、項目の最上段の、緑の字の「すべて表示」を、
 クリックすると、今までの全てのブログを順番に読むことができます。
 
 上記の仕方で開いたときに、ブログ欄外の上のほうに、
 赤く小さい字で「リスト」とあります。この文字をクリックすると、
 記事の一覧表が出ます。
 
 右欄のカレンダーの、年と月の表示の左右の三角印をクリックすると、
 年月を移動させて検索することができます。カレンダーの中で赤文字の
 日付けがブログ作成の日で、これをクリックするとその日のブログが、
 表示されます。
 
 

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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
 
京都市 左京区 下鴨 神殿町 17-3
 
京都市地下鉄「北山」駅を下車、徒歩約7
 
 
京北教会のホームページを、
 
ブログとは別に作っていますので、
 
よろしければ、どうぞご覧下さい!
 
 
ホームページのアドレス
 
 
 


 
 
 

 
 
 
 
本日のブログはここからです。
 
「8月9日()のこと
 








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教会庭のサルスベリの花。

枝にセミの抜け殻。

まぶしい陽のもとで。



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教会庭に咲く木槿(ムクゲ)。

樹の高いところにたくさんの花が咲く。


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低いところにも、大きな花が咲く。



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地面近くには、小さな小さな、ミニバラ。








どれもが、夏の恵み。










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  2015年 8月9日(日) 京北教会 聖日礼拝


 聖書 コリントの信徒への手紙1 10章 23〜31節
 
 説教 「わたしの自由な良心」

 讃美歌21 155「山辺に向かいて我」

       487「イェス、イェス」

       494「ガリラヤの風」


 礼拝出席者数 30名

   先週の礼拝に来られた方が、

   本日も来てくださり、うれしかったです。

   そしてまた、京北教会牧師がかつて在籍した、

   愛媛県の教会での後任牧師の方が、

   この日の礼拝に出席されました。感謝。


   お一人おひとりの来会にあたり、神様に感謝です。
  
 

 礼拝後 ・お茶と祈りのとき

       個人消息や教会の近況など、祈りの課題を、

       牧師が話したあとに、3人の有志が祈りました。

 
 
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とっても美味な、

手作りマドレーヌをありがとうございました。

大きな煎餅も、おいしかったです。

それに、冷たい緑茶と、熱いコーヒーと、

至れりつくせりでした。

ご用意いただいた皆様に感謝申し上げます。



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うちわの使い方がうまくなったY君。

「ほら、うちわ、あおいで〜」と、みんなで注文。


(注・猛暑により教会では、礼拝堂も集会室も、

クーラーがちゃんと効いています)



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教会のなかは涼しくても、

帰り道は、さんさんと陽が照っています。

みなさん、水分をしっかりとってください。


猛暑のなか、

礼拝に来ることも、帰ることも、

たいへんだと思います。

どなたも、お気を付けて。


そして、また来週、ここで、

お会いしましょう。









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 週報掲載 <宣教のことば>



 「どうしてわたしの自由が、

  他人の良心によって左右されることがありましょう。

  わたしが感謝して食べているのに、

  そのわたしが感謝しているものについて、

  なぜ悪口を言われるわけがあるのです。」


       コリントの信徒への手紙1 11章 29,30節



 

 
 使徒パウロがここで扱っている、

 食べ物の問題とは、信仰上の問題です。


 異教の像に「お供え物」として献げられたあとに、

 そこから払い下げられて市場で売られている肉を、

 自分たちが、食べてもいいかどうかという問題です。

 
 コリントの町の教会の人たちからの、

 この質問に答えてパウロは述べます。


 食卓に出された肉が、どういう肉か詮索せずに、

 感謝して食べたら、もうそれで十分なのだと。

 (なぜなら、肉は肉であって、何も変わりませんから)


 しかし同時に、

 宗教上の戒律にこだわりを持つ人がその場にいて、

 指摘をする人があった場合には、

 その指摘をした人の良心を傷つけないために、

 出された肉をあえて食べないことも勧めています。


 良心があれば、

 自分をしばっている「こだわり」を破ることもできるし、

 他人が持つ「こだわり」を尊重することもできます。


 使徒パウロは、この箇所で、

 「信仰」と言わずに「良心」と言っています。


 何から何まで「信仰」の問題にすることで、

 問題を難しくしてしまってはいませんか。


 何でも、対立の問題にしてしまってはいませんか。


 いちいち「私の信仰がどうのこうの」と言わずに、

 自分の「良心」で物事を判断したら、

 もう、それで片付きませんか。


 







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 先週のある日の夕方、

 窓の外を見ると、すごい夕焼けの色につつまれていました。


 
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 なかなか、私のカメラ(iPhone)では、

 色彩が正確に出ないようですが、

 なんだかすごい夕焼けの色につつまれました。



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   空を見て、自然の不思議さを思うときに、

 ふと思い出す、聖書の言葉があります。


 「イエスはまた群衆にも言われた。
 
 『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、

  「にわか雨になる」と言う。

  実際その通りになる。

  また、南風が吹いているのを見ると、

  「暑くなる」と言う。

  事実そうなる。

  
      偽善者よ、

  このように空や地の模様を、

  見分けることは知っているのに、

  どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

                        
                                     ルカによる福音書 12章 54〜56節




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  8月には、歴史を示す記念日がいくつもあります。

  その一つひとつに、「今の時」が関係しています。


  歴史の流れ、変化を見すえながら、

  「今の時」(が示している意味)を見分ける心が、

  神様の御心によって、いただけますように。



  どの人にも、「今の時」を、

  見分ける力が与えられて、この時代のなかを、

  みんなで、生き抜いていくことができますように。