<きょうほく・きょうかい>
「虹の架かる教会」京北教会ブログ
2013.10.20
「10月20日(日)永眠者記念礼拝のこと」
本日の記事は、
この下の、数枚の写真の後にありますので、
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教会庭の夏ミカン。
日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
ブログとは別に作っていますので、
よろしければ、どうぞご覧下さい!
ホームページのアドレス
本日のブログはここからです。
「10月20日(日)永眠者記念礼拝のこと」
教会受付。
教会員が自宅で育てた蘭(カトレア)。
御自身が身体の事情で、礼拝に来ることができず、
この花に気持ちを託された。
逝去されたご夫君が育てておられた花。
場所によって、光のあたり方が違い、
少しずつ花の色が違って見えます。
礼拝堂。
教会玄関。
来られる人を出迎えて、
共にそこにいてくださる、心。
聖書 ルカによる福音書 23章 26~43節
説教 「十字架の神学」
讃美歌21 493「いつくしみ深い」
460(1-4節)「やさしきみちしるべの」
575「球根の中には」
礼拝の中で追悼のとき
京北教会永眠者名簿の朗読
讃美歌21-385「花彩る春を」
黙想(オルガン演奏)
出席者数 53名
礼拝後 ・軽食 ・4人の方から御挨拶をいただきました。
・1時前に貸切バス(15人乗車)で教会を出発。
自家用車で行かれる方はそれぞれに。
・京都霊園内の教会納骨堂前で納骨式と墓前礼拝
墓前礼拝出席者 29名
この日は雨の日となりました。
納骨式と墓前礼拝は傘をさしながら、短時間で行いました。
雨中にもかかわらず、大勢の方にご出席いただき感謝です。
早朝から、お昼の食事のためにご奉仕いただきました。
ありがとうございます。
何人分でしょう。事前に人数はわからないので、
今までの経験をもとに十分な人数分を作ってくださいます。
見た目も綺麗になるようにして。
ごちそうさまでした! 美味しく味わっていただきました。
礼拝も、食事も、墓前礼拝も、
たくさんのご出席をありがとうございました。
今日、礼拝に来たかったけれども、
身体事情や天候などで出席を断念された方々で、
近隣にお住まいの方々には、
後にこのお食事を役員の皆様が届けました。
これは前日の土曜日午後の写真。
役員の皆様が集まって、会場設営をしてくださいました。
故人の遺影をご遺族からお預かりして並べます。
写真台は手作りです。分解組み立て式になっています。
工夫して役員の方々が作ってくださいました。
この台を組み立てて白い布をかけたうえに遺影を並べます。
終わると折りたたんで収納します。
1年に1度のこの日のために作られました。
日曜日午後からの墓前礼拝は雨の中でしたので、
写真を撮れませんでした。
下は今年5月の、教会納骨堂の写真。
山の中腹のような位置にあります。
傘をさしながら、讃美歌を歌い、静かな心で礼拝をしました。
時間を短くして、プログラム通りに実施。
1年に1回のことですから、きちんといたしました。
今日、いろいろな方々にお会いできました。
久しぶりの方、懐かしい方、遠方から来られた方……。
うれしいものです。
何人かの方々に御挨拶(近況など)をいただきました。
ありがたく聞かせていただきました。
どこにいても、皆様お元気でいてください。
そしてまたお会いいたしましょう。
週報掲載「宣教のことば」
淡々と記しています。
はりつけにされて、野ざらしの中で、
イエスは絶命します。
この箇所を読んでいて、心が痛むのは、
人々が、イエスを苦しめ続けたことです。
他人を救ったのだから、今度は自分で自分を救えばよい。
そう言ってあざけりました。
死にゆく人に対して、
それまでその人がしてきた善い働きを例に出して、
さあやってみろ、できないだろう、
もうお前は死にゆく人なのだ──
そう罵倒してあざけるとは何ということでしょう。
人々が、死にゆくイエスに対して、
敬意を払えなかったのはなぜでしょうか。
それは死を滅びと考えていたからです。
大きな罪を背負って滅びていく愚か者、
神から見捨てられて滅びる罪人──
それがイエスだと、
人々はこのとき思っていたのです。
死は生涯の帰結であり生の証しです。
そして、十字架は、復活への転換点として、
人に神を出会わせます。
単なる事実としての十字架ではなく、
神学──神が私たちに教えてくださることについての学
──を伴った十字架が、
人に神を出会わせ、復活の主を指し示すのです。
難しい哲学としての神学ではなくて、
生と死の意味を証しする、
人間が生き、生かされていく力としての、
十字架の神学が、
イエスが私たちの主であることを、指し示すのです。
教会庭の酔芙蓉(すいふよう)。
酔芙蓉には、
白い花と紅い花があるのではなくて、
同じひとつの花が、白から紅へと、
1日の中で変わっていく。
大きく開いた花が、縮んでいき、そしてまた開く。
花は、ありのままに、そこにあるだけなのに、
私たちにとって意味があるのは、なぜだろう。
命を教えてくれるからだろうか……。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、
目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言(ことば)について。
ヨハネの手紙1 1章1、2節