<きょうほく・きょうかい>
「虹の架かる教会」京北教会ブログ
2013.5.26
「京北教会の歴史をたどって(2013掲載)」
今日の礼拝堂の紫蘭(シラン)。
ブログとは別に作っていますので、
よろしければ、どうぞご覧下さい!
ホームページのアドレス
ブログのスペースの関係で、2013年3月17日ブログ記事から、
教会の歴史に関わる部分を、一部加筆修正して、
以下に再掲します。
──教会の歴史をたどって──
京北教会の創立記念日は、1909年3月25日です。
この日は、京北教会に専任の定住牧師を置くことが、
当日のメソジスト教会(教派)会議で決定される前日です。
専任の牧師を定住することで、独立した一つの教会になった、
そのような理解でこの日が創立記念日になったと推測できます。
(あるいは、京南教会が下鴨に移転して、
京北教会となったときの、移転改築による献堂式が、
1941年3月27日であることに関係があるのかもしれません)
しかし、実際の伝道の歴史は、
この日からずっとさかのぼって始まっています。
1901年12月8日が、京北教会の発端となる「烏丸講義所」が、
烏丸五条下ルの場所に借家で出発した日です。
そこから数えると112周年です。
最初の講義所は、1901年の伝道出発から、
借家を転々と5回移り、名前も「五条講義所」など変えつつ、
歩み続けて成長し、信徒が増えて、
さらに幼稚園を開設するまでに力をつけ、
1923年に「京南教会」となり、
その翌年には、ついに念願の会堂建築を実現します。
京南教会に至る前の、
講義所時代の住所は以下の通りです。
(1)1901~1903 烏丸五条下ル 大坂町
(2)1903~1912 不名門通 五条下ル
(3)1912~1914 万寿寺通 烏丸西入ル 御供石町
(5)1917~1924 松原通 高倉西入ル 本灯籠町
そして、京南教会が建築されたのは、1924年。
(6)1924~1939 堺町通 松原下ル 鍛冶屋町
(7)1939~1941 ?
(8)1941~ 下鴨神殿町17-3(現在地)
さて、講義所であった借家があったところは、
それぞれ、どんな町だったのでしょう。
GoogleMapから現在の写真をひろって以下に掲載します。
当時の正確な場所はわかりませんので、あくまで、
記録に残されている住所の付近ということでの写真です。
(1)1901~1903 烏丸五条下ル 大坂町
(2)1903~1912 不名門通 五条下ル
(3)1912~1914 万寿寺通 烏丸西入ル 御供石町
(5)1917~1924 松原通 高倉西入ル 本灯籠町
そして、以下の場所に「京南教会」が建築されました。
この位置については、はっきりと確定ができます。
(6)1924~1939 堺町通 松原下ル 鍛冶屋町
以前、「京南教会は、大丸のドレメのところにあった」と、
かつて京北教会で長く牧師をされた高木彰牧師が、
そう語っておられたのを聞いた教会員がいます。
「ドレメ」とは「大丸ドレスメーカー学院」のことで、
現在は「ディーズ(D`s)ファッシヨン専門学校」、
という名になって今でもあります。
上記写真の建物がそれです。
ここに京南教会があったのです。
細い路地が続くこの地域にあって、
この場所だけが広い敷地になっていることと、
教会員の証言で、京南教会の場所はここだと確定できます。
下は、現存する京南教会の写真。
そして、1941年に下鴨に移築移転して現在地へ。
3月27日に献堂式が行われ(下の写真)
あわせて「京北教会」へと名称を変更しました。
こうして、京南教会と京北教会の2枚の写真を並べて見ると、
会堂の形が違います。
ということは、そのままの形で移築したのではなくて、
資材を活かしながら、礼拝堂も含めて、大きく手を加えて、
新しい会堂を建てる思いで建築されたのでしょう。
下は、京南教会時代の「京南愛育園」の記念写真。
教会の玄関の戸は、おそらく今の京北教会と同じでしょう。
礼拝堂を用いて保育がなされていました。
そして、以下は、たいへん貴重な、
京南教会の礼拝堂が写っている写真。
子どもたちを写した記念写真です。
「花の日」(6月第2日曜)かもしれません。
この写真で注目されるのは、京南教会の礼拝堂の装飾です。
京北教会のそれとは全く違います。
いばらの木彫りその他の装飾は、全くありません。
ということは、京北教会の礼拝堂の個性的な装飾は、
1941年の移転改築の際に、全く新たになされたと、
考えることができます。
このことは、つい最近、教会の古いアルバムが出てきて、
初めてわかったことです。
京南愛育園時代からのオルガン。
製造番号から、1916年または1917年製造とわかります。
歴史の中の教会…。
他にもいろいろと、
私たちの知らない事があるのでしょう。