「虹のかかる教会」京北教会ブログ
2013.3.24
「3月24日(日)─棕櫚(しゅろ)の聖日」
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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会
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2013年 3月24日(日)付
「3月24日(日)のこと─棕櫚(しゅろ)の聖日」
今朝の礼拝堂の花。
同志社女子大学の卒業式で用いられた花を、
職員の方が特別に、教会に寄贈してくださった。
感謝。
新たな気持ちで、
今日から始まる「受難週」を迎える。
教会の暦で、イエス・キリストの十字架の死を、
心に刻むとき。
2013年 3月24日(日) 京北教会 「棕櫚(しゅろ)の聖日」礼拝
イエスが、とらえられて十字架に付けられる数日前に、
都の人々が棕櫚(しゅろ)の葉を振ってイエスを迎えた、
その出来事から、受難週の聖日を、こう呼んでいる。
説教 「まなざしを降ろして」
讃美歌21 311番(1-4節)「血しおしたたる」
313番「愛するイェス」
484番「主われを愛す」
出席者数 19名
今日は、急病や療養などで、
欠席とのご連絡が多々ありました。
季節の変わり目、まだまだ寒い日もあります。
皆様、どうぞお大事に。
礼拝後、何人かの方にお電話しました。
元気な声が聞けてうれしかったです。
午後から訪問にも参りました。
先日に退院された方もおられました。
自宅療養の中で、また礼拝に出られる日を、
楽しみにしておられました。
遠方の方からのお手紙もありました。
教会のマーマレードの御礼など。
皆様、どこにいても、つながっています。
週報掲載 <宣教のことば>
主イエス・キリストが、十字架につけられたとき、
その場に、イエスの母マリアがいたことが、
そして、十字架上のイエスの言葉によって、
マリアをひきとることになりました。
こうした聖書の場面を読むときに、
そこで一人ひとりの心中は記されておらず、
誰が何を考えたのか、私たちにはわかりません。
けれども、この聖書箇所において、
そこの場にいる、一人ひとりの心中を、
私たちは知らなくてもよいのかもしれない、
とも思います。
なぜなら、
他人には決して伝えられない苦しみは、
「ただ神様だけがご存じであるべきもの」だからです。
主イエスは、ご自分の苦しみをもって、命をもって、
他者の存在を贖(あがな)いとられました。
あがなう、とは何かを代償にすることで、
大切なものを取り戻すことです。
失われた命、失われた絆もまた─、
主イエス・キリストの贖いによって取り戻されます。
そのための、十字架の死でありました。
そこに至るまでのキリストの苦しみは、
一切の推測を退けて、
「ただ神様だけがご存じであるべきもの」
なのでありましょう。
3月上旬、ある教会員のご家族の方が逝去された。
ご自宅で家族葬が行われ、
京北教会牧師が司式させていただいた。
その方の大切にされていたヒヤシンスの花。
「この花が咲いたら、写真を撮りに来てください」と、
以前に言われて、そのときが来るのを楽しみにしていた。
花が咲く前に逝かれた。
そして、何日かが過ぎて、花が咲いた。
それから、ご遺族のお招きを受けて、写真を撮りに行った。
以下、お庭で撮影させていただいた写真。
ご了解を得て、掲載いたします。
「球根の中には 花が秘められ
さなぎの中から 命はばたく
寒い冬のなか 春はめざめる
その日、そのときを ただ神が知る」
讃美歌21─575番1節
「人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神はご自分を愛する者たちに準備された。」
コリントの信徒への手紙1 2章 9節