京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「ふっきれる日が来た」(使徒言行録2章よりの説教)

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 今日は少し暑さを感じる日でした。
 これはどこの山でしょう。
 (本当は山というほど高くないところ)



 2012年 5月27日(日) 京北教会 ペンテコステ聖霊降臨日)聖日礼拝

 聖書 使徒言行録 2章 43~47節
   説教 「ふっきれる日が来た」
 讃美歌21 475「あめなる喜び」
       563「ここに私はいます」
       411「うたがい まよい の」
       81 「主の食卓を囲み」

 出席 27名
 
 礼拝後 軽食。その後、午後1時前に貸切バスで教会を出発。
     墓前礼拝(京都霊園内の京北教会納骨堂前にて)。出席17名
     貸切バスで教会に戻る。

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 礼拝堂に活けていただいた花。
 紅い花は、グロリオサ。原語には「見事な」という意味があるそうだ。
 日本名は百合車(ゆりぐるま)。百合の一種である。

 この花は、ペンテコステ聖霊降臨日)の象徴の一つである、
 炎の、紅い色を表すのによく使われるそうだ。

 人の心の中で、燃える火。
 それは、力を生む。



 礼拝後に、軽食をいただいた。
 今日はちらし寿司。
 爽やかな味で、ボリュームも充分。美味でした。
 材料を分担されて、朝早くからのご準備をいただき、
 ありがとうございました。

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 午後から貸切バスで教会を出発して、京都霊園へ。
 桂の付近である。

 その中に、京北教会の納骨堂がある。
 下の写真の中央右、四角い屋根の上に十字架があるところ。

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 京北教会では、春と秋の二回、教会納骨堂に行って、墓前礼拝(納骨堂の前での短い礼拝)をする慣わしになっている。先に天に召された先達の方々を心に憶えるときとして。

 二回の内の一回をペンテコステ聖霊降臨日)の日に行うのは、京北教会の習慣。他にもそのようにしている教会がある。

 ペンテコステは、聖書に記されている最初の教会の誕生を記念する日。
 そのことは、「教会の歴史」を記念することにも関係する。
 そうであるならば、この日に、京北教会が、
 今いる私たちにとっての、先達の方々を憶えて、
 こうして墓前礼拝をすることも、
 ペンテコステの意味にかなっているはずだ。



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 「私たちの国籍は天にある」と刻んでいる。
 新約聖書の、フィリピの信徒への手紙 3章 20節の言葉。
 自分たちの最終的な帰属は、天である、という意味。
 神のみもとに、私たちのよりどころがある。

 それは決して、いま生きているところを軽く見る言葉ではない。

 希望が確かだからこそ、
 いま生きているとき・ところを、
 大切にできるのではないだろうか。

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 この納骨堂を建てたのは1974年。

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 青空の下で、輝く十字架に、
 周囲の緑が映りこんでいる。
 
 思わぬところに、美しさが現れる。

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 遠くに京都の市街地が見える。
 見晴らしのよいところで、青空の下で、短い墓前礼拝をした。

 天に召された方々を想って。
 
 自分自身の命が神に生かされていることを想って。


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礼拝堂に活けた花を、
そのままこちらに持ってきて活けた。
 
午前の礼拝と変わらぬ心を持って。
 
小さな、ひまわりの花が、活き活きとしている。
 
初夏。
 
 
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 ─ミニ解説─

 ペンテコステ聖霊降臨日)とは、
 使徒言行録2章に記されている物語による記念日。
 最初の教会が誕生したときのことを記念する日である。

 最初の教会、それは人間が創り出したのではなくて…
 神の見えざる「聖霊」の働きによると記されている
 
 神御自身が人に働いて、
 教会を造り出す「力」となってくださることを、
 使徒言行録では、「聖霊」の働きと記している。

 そのことは、風、風の音、小さな炎、鳩といった、
 多様なシンボルで聖書に表されている。

 それは、言葉、歌、説教、伝道、教会形成、異邦人への宣教など、
 いくつもの働きを生み出す力。



 2012年 5月27日(日) 京北教会 
 ペンテコステ聖霊降臨日)礼拝

  礼拝説教(要旨+加筆)



 聖書 使徒言行録 2章 43~47節

「信者たちは皆一つになって、
 全ての物を共有にし、
 財産や持ち物を売り、
 おのおのの必要に応じて、
 皆がそれを分け合った。

 そして、
 毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、
 家ごとに集まってパンを裂き、
 喜びと真心をもって一緒に食事をし、
 神を讃美していたので、
 民衆全体から好意を寄せられた。

 こうして、主は救われる人々を、
 日々仲間に加え、
 一つにされたのである。」



 説教題 「ふっきれる日が来た」  
            京北教会牧師による説教

 ふっきれる日が来ました。
 イエスが天に上げられたあと、
 イエスという中心を失っていた弟子たち、人々にとって、
 それまでのいろいろなことが、ふっきれる日が来ました。

 イエスについての個人的な思い出、
 自分自身の弱さ、失敗、
 イエスを裏切った後ろめたさ、などなど、
 イエスがいなくなった後に、
 ぐるぐると過去を思い返していた、
 使徒たちにとって、過去のあれこれのことが、
 ふっきれる日が来ました。

 ペンテコステ聖霊降臨日)です。
 かつてイエスが約束していた通り…、
 神が、聖霊という見えざる姿で、
 自分たちに臨んでくださったのです。

 それは、風の音、小さな炎、
 そうしたシンボルを通して、
 使徒言行録では描かれています。

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 イエスという中心を失ったあと、
 ただ約束を信じて祈って待っていた人々に、
 力が与えられました。
 それは、イエス・キリストを証しして語る、
 という力でした。

 使徒言行録には、それは、
 使徒たちが異邦の様々な国の言葉で、
 力強くイエス・キリストの宣教を伝える言葉を、
 話し出したという形で書いてあります。
 風のような音がして、使徒たちに聖霊が臨み…、
 そしてそうなったのだと…聖書は語るのです。

 不思議な話でありましょう。
 これは、「空想」ではないかな、とも思えます。
 後の時代の人たちの「善意による創作」かな、とも。
 
 
 けれども、もっと、きついことを言う人たちがいました。
 使徒言行録の中に、ちゃんと記されています。
 「あの人たちは新しい酒に酔っているのだ、
 と、あざける者もいた」と。(2章13節)

 いま聖書を読んでいる私たちよりも、
 もっともっと、きついことを言う人たちがいたのです。
 ペンテコステの、まさにそのときに。

 そこでは、ペンテコステの出来事は、
 どうしようもない人たちの出来事だと、
 あざけられているのです。

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 それに対して、使徒のペトロは、語り始めます。
 異邦の国々の言葉ではなくて、
 普通の言葉で、理性をもって論理的に語り出します。
 イエス・キリストの生涯が何であったかを。
 神の恵みがイエス・キリストの十字架と復活を通して、
 示されたとはどういうことなのかと。

 その結果、それを聴いた人たちは、心を悔い改め、
 その日に仲間になった人たちがたくさんいたと記されています。

 これもまた、空想的なことかもしれません。
 けれども、空想とはどんなものでしょう。
 子どものときの空想、10代の頃の空想、それらは、
 無意味なものだったでしょうか?

 空想は、そのままの形で実現するためにするものではなく、
 長い時間をかけて、落ち着いた内容へと形を変えて、
 そうして、その空想にこめられた意味を、
 実現していくためのものではありませんか。

 イエス・キリストの教会は、
 世界にあって、
 長い長い時間をかけて、
 ペンテコステの出来事を、
 落ち着いた、常識的な形で、
 現実化してきた、そういえるのではないでしょうか。

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 今日の聖書の箇所にある、
 みんなで持ち物を出し合って支え合い、
 貧しい者を作りださない共同体、
 神を信じて、神の恵みを言葉にして伝えて、
 神のもとで祈って生きていく共同体、
 その姿には、まわりの人たちが好意を寄せ、
 そうして、一人また一人と、
 仲間が与えられていく共同体…。

 それは、世界各地にある教会が、
 理想としている姿です。

 その、本当の実現は、はるか彼方にあって、
 途方もない夢のように思えるけれども、
 教会は世界の中にあって小さくても、
 ペンテコステの出来事を現実化するところとして、
 神様によって用いられてきました。
 その歴史に、実際には、人間の現実における、
 矛盾が、無数に現れているのだとしても。

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 ペンテコステを表現するシンボルの一つとして、
 聖書では「風」が出てきます。

 風は、強い力でもあり、
 また、かすかな力でもあります。
 ものを動かす力でもあり、
 私たちに何かを気づかす力でもあります。

 風は聖書の中で、どんなふうに出てくるでしょう。
 旧約聖書の列王記下2章11節には、
 預言者エリヤが、嵐の中、
 天に上げられていったという物語があります。
 
 ここでは、風は人を天まで連れていく力として、
 記されています。

 これまた空想のお話といえば、それまでですが、
 そこまで風の力の強さというものを、
 私たちは感じたことがあるでしょうか。

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 メアリー・ポピンズという、
 アメリカ映画の主人公は、
 傘を開いて、風に乗って空を飛ぶことができます。

 風に乗って、空へ。
 そこから世界を見るのです。
 次はどこへ行こうかと、わくわくしながら。

 そして、風に乗って、降りてきます。
 そこから、また地上の暮らしが始まります。

 そんなふうに、
 風というものが、私たちを天まで上げて、
 いろいろなものを見せてくれるなら──

 私たちは、世界を新しい目で見ることが、
 できるのではないでしょうか。

 ペンテコステの日に、
 聖霊というものが風にたとえられていることを、
 新しい気持ちで受けとめたいと思います。

 今日の聖書箇所にある、
 (実現不可能に思える)理想の教会…

 それは、みんなで、べたべたしあう教会ではなく、
 ヒューマニズムによる正義感あふれる教会でもなく、
 何かの思い出に頼るだけの教会でもなく──
 
 今までの、いろいろな過去の思い出が、
 風のごとくに人をすくい上げる「聖霊」によって、
 ふっきれていった人たちの、
 新しい歩みの姿なのでありましょう。

 
                   
              (以上、礼拝説教)