みなさんの帰られたあとの教会玄関で、受付机を撮影。
教会庭のジャーマンアイリスの花などを、
生けていただき、ありがとうございました。
花の下の、白い時計は、最近、教会で購入して、ここに置いたもの。
いろいろと役に立っているようだ。
わたしたちは、時の刻みの中で生きている。
そのなかで、ほんとうの「とき」を必要としながら。
聖書 ルカによる福音書 7章 24~35節
説教 「時を見て、人を見る」
讃美歌21 361「この世はみな」
482「わが主イエス」
458「信仰こそ我が身を」
出席 28名
礼拝後 いつものお茶
集会室トイレの改装工事説明会
お茶のときに、京都と横浜の二つに生活の場を置いていた方から、
このたび横浜に定住されることになったとのご挨拶をお聞きした。
お元気で、またお会いしましょう。今後もよろしくお願いいたします。
それから、4月のイースター礼拝で洗礼を受けられた方に、
日本キリスト教団出版局発行の雑誌「信徒の友」のプレゼント。
出版局からのお祝いプレゼントとして贈られてきたもの。
おめでとうございます。
そして、トイレ改装工事の説明会。資料をもとに、皆さんと話し合った。
いろいろな意見をいただき、役員会の原案に概ね賛成いただいたうえで、
細かい点に配慮して、役員会が今後十分に検討することにしました。
より使いやすくなり、より色々な立場の方に配慮したものとなる、
しっかりした改装となることを願っています。
このようなものは建築当時はもちろん、昔は無かったものである。
教会が、みんなにとって安心できる場所になるために、
皆さんで話し合って設置したもの。
この手すりを作ることも、いろいろな意見を出し合いながら、
皆さんが、その時代において、時間をかけて話し合ったことだろう。
教会には話し合いが付きものである。
祈りに支えられた話し合いができることは、教会の喜びである。
礼拝のために、伝道のために、隣人愛のために、
私たちは話し合って、教会とお互いの存在を支え合う。
教会の門柱の根元に作られた鉢の部分。
先々週のある日の雨上がりに撮影したもの。
ここにこんな造りがあることに、
京北教会に来て5年めになって初めて気がついた。
これも、話し合って造られたのだろう…。
聖書 ルカによる福音書 7章24~35節
「では、今の時代を何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。」
(31節)
説教「時を見て、人を見る」
今日の聖書では、イエス・キリストが、「時代」(とき)について、
語っているところです。時代、時間、とき。それらは…
私たちにとって、いつも気になるものです。
今日も、昨日も、明日も、私たちは時間を気にして生きています。
時間を逃すと、せっかくの良い計画も台無しだからです。
時間、時間…いつも、私たちは時間を気にしています。
でも、そんなにまで、気にしているにもかかわらず、
時間ということについて、幸福感を味わうことが少ないのは、
なぜでしょうか。
時間を気にしながら、「間にあって、胸をなでおろした」とか、
「ギリギリのところで、ほっとした」というような言葉を言います。
そこには、幸福感ではなく、追われる者の、つかの間の安息のような、
一区切りがあるだけです。
それは、時間というものが、絶対的な物差しとして、
私たちの人生の上に、重圧となっているからではありませんか?
同様に「時代」ということもまた重圧です。
時代の中で、自分は遅れているか進んでいるか。
どこかで気にしてしまいます。
時間に追われて、時代に押しのけられて、
私たちは、どこかに飛ばされていくのです。
そのような日々の生活にも、もちろん、
意味は十分にあるのですが、
それでも、私たちが、時間に動かされて生きている、
ごくごく小さな存在であることは間違いがありません。
神に対する罪の悔い改めを民衆に説いた、ヨハネを、
ある人々は受け入れ、ある人々は受け入れませんでした。
特に、社会の中心的、上層的な人々は、ヨハネを受け入れませんでした。
そのために、社会そのものは何にも変わりませんでした。
「笛吹けど踊らず」と言われるような…、
つまり、ヨハネが人々みなに、罪の悔い改めを呼びかけても、
ちっとも答えてもくれない人々がたくさんいる時代…。
だから、何も変わらないかのように見える時代…。
そして、それはヨハネの時代だけではなく、
今日の私たちの時代のことでもあります。
罪を悔い改めて、神のもとで生きていくことを、
真っ向から拒絶する「時代」の中に、
誰もがいやおうなしに、押し込められています。
聖書が語る、罪の悔い改めとは、
犯罪とか倫理道徳に関わる、反省や告白のことではありません。
そうではなくて、端的に、神様と自分との関係がまっすぐではない、
どこかに自分を隠して、神をあざむいていることが、罪なのです。
だから、罪の悔い改めは、神様に悔い改めて、
神様とのまっすぐな関係を持ちたい、と願うことなのです。
その関係が、神様から、聖書を通じて、イエス・キリストを通じて、
待たれているのに、なぜ、私たちは、それを拒絶するのか。
その理由の一つは、私たちが時代に、時間に、支配されているからです。
物差しとして人を計る時間、あるいは時代というものがあって、
それに合わせることで精一杯の人生だから、
そのようにしか生きられないから…
もしも、神様からの問いかけがあっても、それは、
他のことと同じように、いつしか時の中で過ぎて行くことにしか、
感じられなくなっているのです。
罪の悔い改めということが、いま、このときにおける、
あなたに対する、大切な問いかけであったとしても、
受け入れることができずに、遠くから冷笑して、
やり過ごしてしまうのです。
人々は、イエスのことを冷笑して、
「大食漢の大酒飲み」と言いました。
大飯(おおめし)ぐらいの大酒飲み…。
イエスが、罪人(社会の中で疎外されていた人々)と共に、
飯を食らい、酒を飲んだことが、冷笑されています。
イエス・キリストと罪人たちとの、共なる楽しい食事が、
今、このときにおける、このときにしかない、
一人ひとりの「あなた」への問いかけであったにも関わらず。
イエスの「共に生きること」の宣教もまた、多くの人々にとっては、
過ぎ去る時間の一コマにしか見えませんでした。
何事も冷笑して、やりすごしてしまう「時代」の中で。
今日の私たちもまた、この時代の中で、
時間という物差しに支配されたままであるならば…
神様からの問いかけ(というものがもしあったとして)も、
それは、ただ過ぎ去っていく時間の一コマにしか思えなでしょう。
はるか遠い記憶の中に、積み残していくだけのものとして。
ユージェーヌ・ミンコフスキーという、
ドイツやフランスで活動した医師で哲学者の人がいます。
その人が『生きられる時間』という題名の本を書いています。
その中で、時間というものには、二通りあるのだと記しています。
生きられる時間、という言葉を聴くと、私たちは普通には、それは、
自分があとどれぐらい生きられるか、そういう時間のことだと思います。
けれど、その本で言われている、生きられる時間というのは、
それとは違っているのです。
私たちの生きる経験に対して、受け身である時間、
人によって、生きられていく時間、という意味です。
ちょっとわかりにくいですね。もう少し説明すると…。
たとえば、釣りに行って、釣った魚を見て、
「これは食べられる魚だ」
…というときには、魚が人間を食べるのではなく、
人間が魚を食べるのです。魚は受け身な存在です。
それと同じことなのです。
その意味で、ミンコフスキーさんが言う、
「生きられる時間」というときの、時間という言葉は、
「私たちに、時を刻む、時間」のことではなくて、
「私たちが、経験を刻む、時間」のことです。
ここに、時間というときに、二通りの意味があり、
そこに大きな違いがあるのです。
何をしても、しなくても、勝手に進んでいく「時計の時間」とは別に、
人間が、自分自身が、生きる意味を刻むことをしなければ、
全く進むことのない時間、そういう「人生の時間」があるのです。
このことを、彼は、自分の幼い息子のエピソードを用いて、
ユーモラスに、単純に、説明しています。
毎朝、息子と朝食を食べたあとに、父はタバコを1本吸ってから、
学校に行く息子と一緒に、家を出て職場に向かうのが習慣でした。
しかし、ある日、父は朝食のあとにタバコを吸いませんでした。
父がふと時計を見ると、もう二人とも出ないと遅刻する時刻でした。
父は言います。「おい、もう一緒に家を出ないと遅刻するぞ。」
すると息子は言いました。「まだ遅刻なんてしないよ」
父は「どうしてだ?」
息子は、「だって、お父さんはまだタバコを吸っていないから。」
…息子さんにとっては時計の時間よりも、
お父さんと過ごしてきた日常の経験こそが、時間を示していたのです。
…子どもらしい話だといえば、そこまでですが、
それは、「時を刻む」時間だけが時間ではない、と示す話です。
イエス・キリストの話に戻ります。
罪の悔い改め、ということを問いかける神の、
みこころを拒絶し、やり過ごしてしまう私たちは、
「時計の時間」のことだけを考えているのではないでしょうか?。
その時代の中で、時間に支配されながら、
「今日も明日も同じだ」と、いろいろなことを冷笑しながら生きるとき、
心は冷めていきます。神がいなくても、罪の悔い改めをしなくても、
時間は機械的に過ぎていくだけだと思ってしまうのです。
本当はそうではないのです。
一人ひとりの「あなた」が、神の問いかけを心に受けて、
今日、いま、このときに、神との関係がまっすぐでなかったことを、
罪であると自覚して、悔い改めること、
それが無ければ、自分の人生が進まないのです。
ミンコフスキーさんの、息子さんのエピソードにひっかけて、
創作して言うと、
「俺も年を取った…。ずいぶん時間が過ぎたということだ。」
「お父さん、まだ、ちっとも時間は過ぎていないよ。」
「どうしてだ?」
「だって、まだお父さんは、神様の前で、
罪を悔い改めていないから。」
…そんなふうにも、言えるでしょう。
私たちは、自分がいつまで生きられるか、気をもむ時もあるでしょう。
もうこれ以上生きられない、もう問題解決のための時間が無い、
そう思うときもあるでしょう。問題の辛さのゆえに、年齢のゆえに。
しかし、それでも、あなたにとって、あなた自身のための、
「まだ、生きられていない時間」があるのです。
それは、神とのまっすぐな関係を回復し、
罪の悔い改めと、罪のゆるしの恵みの中を生きていく、
そのための時間です。
私たちがその中を生きることを、待ってくれている時間、
私たちが「その経験をそこに刻む」ことを待ちながら、
一刻も動くことなく、待ってくれている時間、
神様が用意してくださっている、恵みの経験の時間が、
聖書の中にはあるのです。
その時間を、経験していきたいと、皆様と共に願います。
時計が勝手にどんどん時を刻んでいったとしても、
まだ生きられていない「人生を刻む時間」が、
神様の側から、用意されているのだと信じて。
(礼拝説教、以上)