京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「今の時代を何にたとえたらよいか」(ルカ福音書7章)

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 みなさんの帰られたあとの教会玄関で、受付机を撮影。
 教会庭のジャーマンアイリスの花などを、
 生けていただき、ありがとうございました。

 花の下の、白い時計は、最近、教会で購入して、ここに置いたもの。
 いろいろと役に立っているようだ。

 わたしたちは、時の刻みの中で生きている。
 そのなかで、ほんとうの「とき」を必要としながら。



 2012年5月20日(日) 京北教会 聖日礼拝

 聖書 ルカによる福音書 7章 24~35節
   説教 「時を見て、人を見る」
 讃美歌21 361「この世はみな」
       482「わが主イエス
                    458「信仰こそ我が身を」

 出席 28名

 礼拝後 いつものお茶
     集会室トイレの改装工事説明会 

 お茶のときに、京都と横浜の二つに生活の場を置いていた方から、
 このたび横浜に定住されることになったとのご挨拶をお聞きした。
 お元気で、またお会いしましょう。今後もよろしくお願いいたします。

 それから、4月のイースター礼拝で洗礼を受けられた方に、
 日本キリスト教団出版局発行の雑誌「信徒の友」のプレゼント。
 出版局からのお祝いプレゼントとして贈られてきたもの。
 おめでとうございます。

 そして、トイレ改装工事の説明会。資料をもとに、皆さんと話し合った。
 いろいろな意見をいただき、役員会の原案に概ね賛成いただいたうえで、
 細かい点に配慮して、役員会が今後十分に検討することにしました。
 より使いやすくなり、より色々な立場の方に配慮したものとなる、
 しっかりした改装となることを願っています。

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 教会の門から玄関へと続く、ゆるやかな段の横に取り付けられた手すり。
 このようなものは建築当時はもちろん、昔は無かったものである。
 教会が、みんなにとって安心できる場所になるために、
 皆さんで話し合って設置したもの。

 この手すりを作ることも、いろいろな意見を出し合いながら、
 皆さんが、その時代において、時間をかけて話し合ったことだろう。

 教会には話し合いが付きものである。
 祈りに支えられた話し合いができることは、教会の喜びである。
 礼拝のために、伝道のために、隣人愛のために、
 私たちは話し合って、教会とお互いの存在を支え合う。

 

         
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教会の門柱の根元に作られた鉢の部分。
先々週のある日の雨上がりに撮影したもの。

ここにこんな造りがあることに、
京北教会に来て5年めになって初めて気がついた。

これも、話し合って造られたのだろう…。




2012年 5月20日(日) 京北教会 聖日礼拝 説教(要旨+加筆)

 聖書 ルカによる福音書 7章24~35節

 「では、今の時代を何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。」
                             (31節)

 説教「時を見て、人を見る」

 今日の聖書では、イエス・キリストが、「時代」(とき)について、
 語っているところです。時代、時間、とき。それらは…
 私たちにとって、いつも気になるものです。

 今日も、昨日も、明日も、私たちは時間を気にして生きています。
 時間を逃すと、せっかくの良い計画も台無しだからです。

 時間、時間…いつも、私たちは時間を気にしています。
 でも、そんなにまで、気にしているにもかかわらず、
 時間ということについて、幸福感を味わうことが少ないのは、
 なぜでしょうか。

 時間を気にしながら、「間にあって、胸をなでおろした」とか、
 「ギリギリのところで、ほっとした」というような言葉を言います。
 そこには、幸福感ではなく、追われる者の、つかの間の安息のような、
 一区切りがあるだけです。

 それは、時間というものが、絶対的な物差しとして、
 私たちの人生の上に、重圧となっているからではありませんか?

 同様に「時代」ということもまた重圧です。
 時代の中で、自分は遅れているか進んでいるか。
 どこかで気にしてしまいます。

 時間に追われて、時代に押しのけられて、
 私たちは、どこかに飛ばされていくのです。
 そのような日々の生活にも、もちろん、
 意味は十分にあるのですが、
 それでも、私たちが、時間に動かされて生きている、
 ごくごく小さな存在であることは間違いがありません。

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 イエス・キリストは、ヨハネのことを語ります。
 (ここでいうヨハネは、「洗礼者ヨハネ」と人々から呼ばれていた、
 イエスに先だって活動した預言者ヨハネのことです)

 神に対する罪の悔い改めを民衆に説いた、ヨハネを、
 ある人々は受け入れ、ある人々は受け入れませんでした。
 特に、社会の中心的、上層的な人々は、ヨハネを受け入れませんでした。
 そのために、社会そのものは何にも変わりませんでした。
 
 「笛吹けど踊らず」と言われるような…、
 つまり、ヨハネが人々みなに、罪の悔い改めを呼びかけても、
 ちっとも答えてもくれない人々がたくさんいる時代…。
 だから、何も変わらないかのように見える時代…。
 
 そして、それはヨハネの時代だけではなく、
 今日の私たちの時代のことでもあります。
 罪を悔い改めて、神のもとで生きていくことを、
 真っ向から拒絶する「時代」の中に、
 誰もがいやおうなしに、押し込められています。

 聖書が語る、罪の悔い改めとは、
 犯罪とか倫理道徳に関わる、反省や告白のことではありません。
 そうではなくて、端的に、神様と自分との関係がまっすぐではない、
 どこかに自分を隠して、神をあざむいていることが、罪なのです。
 だから、罪の悔い改めは、神様に悔い改めて、
 神様とのまっすぐな関係を持ちたい、と願うことなのです。

 その関係が、神様から、聖書を通じて、イエス・キリストを通じて、
 待たれているのに、なぜ、私たちは、それを拒絶するのか。

 その理由の一つは、私たちが時代に、時間に、支配されているからです。
 物差しとして人を計る時間、あるいは時代というものがあって、
 それに合わせることで精一杯の人生だから、
 そのようにしか生きられないから…

 もしも、神様からの問いかけがあっても、それは、
 他のことと同じように、いつしか時の中で過ぎて行くことにしか、
 感じられなくなっているのです。

 罪の悔い改めということが、いま、このときにおける、
 あなたに対する、大切な問いかけであったとしても、
 受け入れることができずに、遠くから冷笑して、
 やり過ごしてしまうのです。

 人々は、イエスのことを冷笑して、
 「大食漢の大酒飲み」と言いました。
 大飯(おおめし)ぐらいの大酒飲み…。
 イエスが、罪人(社会の中で疎外されていた人々)と共に、
 飯を食らい、酒を飲んだことが、冷笑されています。
 
 イエス・キリストと罪人たちとの、共なる楽しい食事が、
 今、このときにおける、このときにしかない、
 一人ひとりの「あなた」への問いかけであったにも関わらず。

 イエスの「共に生きること」の宣教もまた、多くの人々にとっては、
 過ぎ去る時間の一コマにしか見えませんでした。
 何事も冷笑して、やりすごしてしまう「時代」の中で。

 今日の私たちもまた、この時代の中で、
 時間という物差しに支配されたままであるならば…

 神様からの問いかけ(というものがもしあったとして)も、
 それは、ただ過ぎ去っていく時間の一コマにしか思えなでしょう。
 はるか遠い記憶の中に、積み残していくだけのものとして。

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 ユージェーヌ・ミンコフスキーという、
 ドイツやフランスで活動した医師で哲学者の人がいます。
 その人が『生きられる時間』という題名の本を書いています。
 その中で、時間というものには、二通りあるのだと記しています。

 生きられる時間、という言葉を聴くと、私たちは普通には、それは、
 自分があとどれぐらい生きられるか、そういう時間のことだと思います。
 けれど、その本で言われている、生きられる時間というのは、
 それとは違っているのです。

 私たちの生きる経験に対して、受け身である時間、
 人によって、生きられていく時間、という意味です。

 ちょっとわかりにくいですね。もう少し説明すると…。
 たとえば、釣りに行って、釣った魚を見て、
 「これは食べられる魚だ」
 …というときには、魚が人間を食べるのではなく、
 人間が魚を食べるのです。魚は受け身な存在です。
 それと同じことなのです。

 その意味で、ミンコフスキーさんが言う、
 「生きられる時間」というときの、時間という言葉は、
 「私たちに、時を刻む、時間」のことではなくて、
 「私たちが、経験を刻む、時間」のことです。

 ここに、時間というときに、二通りの意味があり、
 そこに大きな違いがあるのです。
  
 何をしても、しなくても、勝手に進んでいく「時計の時間」とは別に、
 人間が、自分自身が、生きる意味を刻むことをしなければ、
 全く進むことのない時間、そういう「人生の時間」があるのです。

 このことを、彼は、自分の幼い息子のエピソードを用いて、
 ユーモラスに、単純に、説明しています。

 毎朝、息子と朝食を食べたあとに、父はタバコを1本吸ってから、
 学校に行く息子と一緒に、家を出て職場に向かうのが習慣でした。
 しかし、ある日、父は朝食のあとにタバコを吸いませんでした。
 父がふと時計を見ると、もう二人とも出ないと遅刻する時刻でした。
 父は言います。「おい、もう一緒に家を出ないと遅刻するぞ。」
 すると息子は言いました。「まだ遅刻なんてしないよ」
 父は「どうしてだ?」
 息子は、「だって、お父さんはまだタバコを吸っていないから。」
 …息子さんにとっては時計の時間よりも、
 お父さんと過ごしてきた日常の経験こそが、時間を示していたのです。

 …子どもらしい話だといえば、そこまでですが、
 それは、「時を刻む」時間だけが時間ではない、と示す話です。

 
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 イエス・キリストの話に戻ります。
 罪の悔い改め、ということを問いかける神の、
 みこころを拒絶し、やり過ごしてしまう私たちは、
 「時計の時間」のことだけを考えているのではないでしょうか?。

 その時代の中で、時間に支配されながら、
 「今日も明日も同じだ」と、いろいろなことを冷笑しながら生きるとき、
 心は冷めていきます。神がいなくても、罪の悔い改めをしなくても、
 時間は機械的に過ぎていくだけだと思ってしまうのです。

 本当はそうではないのです。
 一人ひとりの「あなた」が、神の問いかけを心に受けて、
 今日、いま、このときに、神との関係がまっすぐでなかったことを、
 罪であると自覚して、悔い改めること、
 それが無ければ、自分の人生が進まないのです。
 
 ミンコフスキーさんの、息子さんのエピソードにひっかけて、
 創作して言うと、

 「俺も年を取った…。ずいぶん時間が過ぎたということだ。」
 「お父さん、まだ、ちっとも時間は過ぎていないよ。」
 「どうしてだ?」
 「だって、まだお父さんは、神様の前で、
  罪を悔い改めていないから。」

 …そんなふうにも、言えるでしょう。

 私たちは、自分がいつまで生きられるか、気をもむ時もあるでしょう。
 もうこれ以上生きられない、もう問題解決のための時間が無い、
 そう思うときもあるでしょう。問題の辛さのゆえに、年齢のゆえに。

 しかし、それでも、あなたにとって、あなた自身のための、
 「まだ、生きられていない時間」があるのです。
 それは、神とのまっすぐな関係を回復し、
 罪の悔い改めと、罪のゆるしの恵みの中を生きていく、
 そのための時間です。

 私たちがその中を生きることを、待ってくれている時間、
 私たちが「その経験をそこに刻む」ことを待ちながら、
 一刻も動くことなく、待ってくれている時間、
 神様が用意してくださっている、恵みの経験の時間が、
 聖書の中にはあるのです。

 その時間を、経験していきたいと、皆様と共に願います
 時計が勝手にどんどん時を刻んでいったとしても、
 まだ生きられていない「人生を刻む時間」が、
 神様の側から、用意されているのだと信じて。
                        (礼拝説教、以上)