(教会の庭のむくげ<木槿または無窮花>の花)
今日も暑い日とはいえ、雨のおかげで、いくらか気温が下がりました。
昨晩は特に涼しかったのでは?
皆様それぞれの場所で、少しでも涼がとれるようにと願います。
2011年8月21日(日)京北教会 聖日礼拝
聖書 使徒言行録4章15~31節
説教 「今こそ祈りのとき」
讃美歌21 361「この世はみな神の世界」
459「かいぬしわが主よ」
493「いつくしみ深い」
出席 26名
礼拝後 心で歌おう~新旧讃美歌一曲
讃美歌21 563「ここに私はいます」
お茶の時間
暑い日が続くので、8月半ばにはどうしても礼拝出席が減るのではないかなと思っていたら、いつも以上でした。(京北教会の昨年度の礼拝平均出席は25名)
一回一回の日曜日を大切にして、「この日のために」と、それぞれの体調や仕事、家族の御用などを整えることによって日曜日の礼拝出席をされる皆様によって京北教会は支えられています。
私たちは、互いに力づけあいながら、一つの礼拝を構成します。礼拝のあとに特にお互いに何か言葉を交わすというわけではなくても、礼拝の場に、あの人、この人がおられる、ということを心に憶えながらの礼拝は、みんなで作る礼拝です。
その真ん中にイエス・キリストがおられることを信じ、神様によってこの礼拝の場が用意され、その恵みにあずかっていること、そのことは無条件に正しいと信じられることです。
そして、健康のためやいろいろなご事情で礼拝に出席できない方々にも、礼拝から放たれるそれぞれの方への恵みがあると信じて、祈ります。
今日は「残暑お見舞い」のハガキをみんなでサインして出しました。先週は「暑中お見舞い」ハガキでした。いっぺんに出すと枚数が増えて、機械的にサインしてしまいそうになるので、日にちを変えて少しずつ出しました。
ハガキを出すときには、いつも、この気持ちが届きますようにという思いになります。その思いを励ましてくださる御方に支えられて…。
ポストの下に咲く花。(5月撮影)
今日の礼拝説教(要旨)
聖書 使徒言行録4章15~31節
「『今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたのしもべたちが、思い切って大胆に御言葉を語ることが出来るようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なるしもべイエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議なわざが行われるようにしてください。』
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」
説教題「今こそ祈りの時」
「今こそ祈りの時」──これは東北地方のある教会の、礼拝堂入り口に張ってある一枚の紙に書かれた標語です。どなたが書かれたのかは知りませんが、印象に残る言葉です。震災、津波、原発、風評被害その他たくさんの困難の中にあるなか、辛うじて津波の被害を免れた教会にあって、礼拝堂を地域に開放して物資の供給拠点となって教会が救援活動のセンターあるいは中継地点のようになったのです。その教会の礼拝堂入り口に掲げられた言葉が、この「今こそ祈りの時」なのです。
この言葉に私は驚きました。今こそ働くとき、奉仕するとき、という言葉、あるいは、地域と共に、隣人と共に、というように書いてもいいはずなのに、そのように書かず、「今こそ祈りの時」と書かれていました。
これは、教会が教会として絶対に譲れないものを、震災の戦慄の中にあっても忘れないことを示した言葉であろうと思います。
彼らはこのとき集まって祈りました。理不尽な弾圧や人々の無理解に対して怒るのではなく、神に願いをかけました。彼らにとってもこのとき、「今こそ祈りの時」だったのです。
祈りの時、とはどういうものでしょう。祈りはどんなときに口から出てくるものでしょうか。いや、そもそも祈りが口から自然と出てくることがあるでしょうか。祈りとはそんなに自然に口から出てくるものではありません。心の中で「…どうか何とかなりますように…」と自然に気持ちが向かうことは確かにあります。けれども、口をついて祈りの言葉が自然に出てくるということは、そんなにはないことに思えますが、皆様はどうでしょうか。
礼拝において使われる言葉において、祈りとは別に、「信仰告白」という言葉があります。ここでいう告白とは、何かの秘密をそっと隠れて人に告げるというような意味ではなくて、言葉にしてはっきり言い表すという意味です。(私たちの教会では「使徒信条」の朗読がそれにあたります)
信仰の内容を、ただ心の中で思うだけではなくて、実際に言葉に出して発音するのです。その言葉を人が聞いていたら、何を言っているのかわかるように語るのです。これは独り言ではありません。聞いている人、他者がそこにいるということを意識して発する公けの言葉です。信仰告白というのは、自ら信仰を口に出して言い表すということであり、そのために使徒信条のように、練り上げて完成した文章が作られているのです。
それに対して、祈りとは違うものであると思われるかもしれません。もっと内面的なもので、人前で言葉を発するのではない、心の中のことだと思われるかもしれません。けれども、ときには、祈りもまた告白となります。はっきりと言葉に出して、しかも他の人とその言葉を共有しながら祈るというときもあります。そのような場合の祈りは、信仰告白という言葉にならって、「祈り告白」といってもいいかもしれません。
もちろん、祈りは心の中で、一人ですることのほうが多いものです。言葉に出せないような、心のうめきのような祈りのほうが、言葉に出す祈り、人に聞かせるためのように思える祈りよりも、より真実なものがあるとも言えるでしょう。
けれども、です。「今こそ祈りのとき」という言葉が、東北の被災地にある教会の礼拝堂入り口に掲げられたとき、そこでは、現実があまりにも苦しいから、言葉に出せないような祈りを、みんなそれぞれにいたしましょうということを言っているのではありません。
自分たちは、この礼拝堂において、奉仕やボランティアといった「わざ(行い、行動)」によって生きるのではなく、祈りによって生きるという信仰を「告白」しておられるのだろうと思えてならないのです。
その教会の礼拝堂には全国の教会から送られてきたたくさんの生活物資が並べられ、地域の人が物資を受け取りに来ていました。礼拝堂はこのとき、静かに祈るための場所とされたのではなく、絶え間なく人の声が聞こえる活動の場になっていました。
けれども、だからこそ、逆に「今こそ祈りの時」という言葉が、その言葉を見る人の心に、活き活きと響くのです。目に見える人間の行動に全てが表されてるのではなく、目に見えないものへと、心の目を注ぐことの大切さに気づくのです。
祈りの言葉は、それがたとえ心の中だけであったとしても、その祈りからわき出る力があり、それがいつしか形になるのです。その力の源泉を忘れたところでの奉仕であってはならないのです。絶えず教会はその力の源泉に立ち戻ってそこから力をいただいて歩みます。そのとき、祈りは力になるのです。そして祈りの力は、他の人に伝わる力となり、そのがまた新しい別の祈りを生むのです。
そして、異なった人どうしの祈りが、合流して、また新しい力を生むことさえ、あるのです。お互いが、言葉に出し合って祈るときに!
信仰告白という言葉を先ほど言いましたあとに、祈りも一つの告白となるのだから、言葉に出す祈りは「祈り告白」とも言える、ということを申し上げました。「祈り告白」は自然と口をついて出てくるような自然発生的なものではありません。心にどこかで勢いをつけて、よいしょっと、えいやっと、力を入れてみなければ出てこないように思えます。それは、心の中で行う普段の祈りとは違うところです。
心の中だけで行っている、普段の私たちの祈り、それがダメだというわけではありません。けれども心の中で祈るだけでは、私たちの祈りの力は弱すぎるのです。どうしても、気持ちが外に向かって出て行かないのです。
そしていつかめげてしまうのです。引っ込み思案なばかりの祈りは、「祈り告白」には至らず、そうして、いつか祈るということそのものから、自分の心が遠ざかることだって、無いわけではありません。
今日の聖書では、使徒たちは、イエス・キリストを主と信じる信仰の恵みが力強く世に表されるように、大胆に言葉を語ることができるように、神様に向かってみんなで祈りました。それは、使徒たちみんなの「祈り告白」だったとも言えるでしょう。そこに新たな力が与えられたのです。
この箇所の祈りでは、まず、神様への呼びかけと、その神様がどのような御方であると信じているかの言葉で始まります。そして、(旧約)聖書の言葉が引用され、その言葉が実現していることへの信頼、そして現在起こっていることが神の恵みであるという理解が感謝のうちに語られ、そして最後にこれからに向けての「願い」が祈られます。
その祈りのあと、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した…、そのように聖書には書かれています。いったい何が起こったのでしょうか? 人々の間に、動きが起こったのです。人と人との「間」に動きが起きて、使徒たちは神の言葉を語り出したのです。
神の言葉とはなんでしょうか。神の言葉とは、メッセージです。
神様からあなたに、伝えたい内容をもった言葉です。
このとき使徒たちは、祈りのあとに自分たちの「間」に起きてくる動きによって、自分たちが語るべきメッセージを得たのです。
そのメッセージとは具体的に何であったのか…。この箇所にはそのことは書いてありませんが、それはおそらく使徒たちの「信仰告白」の形成を呼び起こしていくメッセージであったのではないでしょうか。(それこそがやがて「使徒信条」になっていく言葉です)
今こそ、祈りのとき─。
それは被災地にある教会だけの話ではありません。
私たちもまた、その「とき」の中を、被災地の方々と共に生きています。
天の下に生きる、全ての人と共に生きています。
(以上)
(教会庭のサルスベリの花)
今日、お茶のあとに、役員の皆様との打ち合わせ会をいたしました。
9月上旬に、京北教会牧師は被災地に行くことができるかもしれません。
今後スケジュールなど調整してからなので、まだわからないことです。
同じ「とき」の中を、皆様と共に歩むことができればと願っています。
京都であれ、被災地であれ。