京北教会ブログ
──「虹の架かる教会」──
──「虹の架かる教会」──

(教会庭のサルスベリ)
2011年 8月14日(日)京北教会 聖日礼拝
現在の牧師と記念撮影。
聖書 使徒言行録4章1~14節
説教 「夏のありがとう」
讃美歌21 155「やまべにむかいてわれ」
482「わが主イエス、いとうるわし」
458「信仰こそ旅路を」
出席 23名
礼拝後 讃美歌21 563「ここに私はいます」
「お茶と祈りのとき」 個人消息、バザー準備などの報告と有志の祈り
今日の礼拝には三重県津市から、はるばる来てくださった方があった。
高木美代子さん。
京北教会で1941~1979年まで牧会された高木彰牧師の妻。
94才(と6ヶ月)になられました。
ご家族が車で教会まで送って下さった。ありがとうございます。
ご本人の許可を得て写真を掲載させていただきます。

暑い中、遠方から来てくださり、本当に感謝です。

現在の牧師と記念撮影。

とてもお元気なご様子でした。近況などたくさんお話してくださいました。
「お茶と祈りのとき」では、毎回、互いの近況などを語ったあと最後に、いつも違った三人の方にお祈りしていただきます。この日は高木さんに、そのお一人になってお祈りしていただきました。
京北教会でお祈りされるのは何年ぶりのことでしょう。感謝にたえません。
これからも、津市で、ご家族の皆様と共に幸いにお暮らしなさって下さい。
ふだんは日本キリスト教団 津教会で礼拝をまもっておられます。
津教会に神様の祝福がありますように!
そして、京北教会にも、祝福がありますように。

(教会庭のフジウツギ)
2011年 8月14日(日)京北教会
聖日礼拝説教(要旨)
説教題 「夏の、ありがとう」
聖 書 使徒言行録 4章 1~14節
「この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』です。
ほかの誰によっても、救いは得られません。
ほかの誰によっても、救いは得られません。
私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、
人間には与えられていないのです。」
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、
しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
また、イエスと一緒にいた者であることもわかった。
しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、
一言も言い返せなかった。
説 教
イエス・キリストを唯一の救いとして、
人々の前で宣言した言葉が、
今日の聖書箇所に記されています。
「私たちが救われるべき名は、
天下にこの名のほか、
人間には与えられていない」── なんと大胆な言葉でしょう。
そして、傲慢な言葉であると、感じられる言葉かもしれません。
いろいろなものの考え方が、世界にはあります。
それぞれが平和のためになすべきことを自覚して、
違いを互いに認め合って共存していかなければ、
世界に平和は来ないでしょう。
平和的共存のためには、自らの信念だけを他に優越して、
絶対化してはいけない、そのように、
現代に生きる私たちは考えることが出来ます。
すると、どうなるかというと……わたしたちは……
イエス・キリストによる救いを……
人類にとって唯一絶対のことと表現するのは……
いけないことではないのかと……思ったりもします。
じゃあ、どんなふうに言ったらいいのかといえば……
たとえば、私にとっては唯一だけど、他の人には違っててよいとか……
でも、それもまた、なんか自己中心的な感じがするかも……
だからキリスト教はやっぱりおかしいとか……
そういう考え方は、日本ではあんまり合わないとか……
……だから、日本ではクリスチャンが増えないんだとか……
…なんていうのか……あの、その……難しいなあ……。
と、わたしたちが心のなかで思う、
以上のようなことは、おそらく、ペトロたちは、
以上のようなことは、おそらく、ペトロたちは、
何一つ考えていませんでした。
なぜなら、彼らは「無学な普通の人」だったのです。
だから、彼らは大胆な言葉が語れたのです。
あれこれ考えていたら、本当に伝えたい感動は、
人には伝えられないのです。
天下に救いはイエス・キリストの名にしかない、ということは、
イエスの弟子たちにとっては真実なことでした。
そして使徒ペトロの言葉によって、足の不自由さをいやされて、
神殿の外での「ものごい」の生活から解放された、
一人の人にとっても、真実なことでした。
この人たちは、とてもうれしかったのです、イエスによる救いが。
とても、うれしいから、最大限の言葉を使ったのです。
ただ、それだけのことでした。
その言葉を、現代に生きる私たちが、
あれこれと、今風に、いじらなくても、いいでしょう。
言葉をいじれば、いじるほど、
その言葉を使う人の心が、卑屈になっていくからです。
どんな大げさな言葉でも、愛と平和がその言葉の中に、
充ち満ちていれば、人はわかってくれるはずです。
言おうとしていることは、言葉の表面を越えたことなんだ、
ということが。
ペトロはその言葉の前に、(旧約)聖書の言葉を引用していました。
捨てられた石が、隅の親石(本当の柱)になったと……。
人々が「こんなもの、いらない」と言って捨てた石が、
本当は世界を支える、尊い柱になった。
イエス・キリストはそういう存在だと、言いたかったのです。
ペトロがもっと学のある人だったら、
2000年後の私たちも、思わずうなるような名言が言えたかも。
けれども、そんなことは言えませんでした。
今の私たちと同じように。
言えることはせいぜい、
人々から捨てられた命が、人々の命を救う、ということ。
イエス・キリストの十字架の死はそのことを象徴していること。
神様の心は、そういうところにあるんじゃないのかな……という思い。

今日の箇所には、不自由な足がいやされた人が登場します。
その人が横にいたので、人々は一言も言い返せなかったとあります。
天下にこの名しか救いはない、という傲慢な宣言の言葉を聞いても……
それで救われた、いやされたという人がすぐそばにいるならば……
その言葉を、わざわざ批判する気には、人々はなれませんでした。
かといって、それで人々が、そこで神を信じたわけでもありません。
まあ、この場では、これでおしまいにしておこうか、ぐらいでした。
つまり、奇跡が起きたって、それで人が神を信じるわけではありません。
もしも、いやしの奇跡で人に神を信じさせるというなら、
病人は、神の存在を証明するためのモルモットのようです。
人間をモルモットにすることが、神の愛ではありません。
そんなことは「伝道」ではないのです。
とはいえ、このいやされた人がいたから、ペトロの傲慢な言葉は、
処罰の対象にならなかったことも確かです。
この人がここにいたことは、良かったことなのです。
ここには、小さな喜びの構図があります。
イエスを信じて伝える人がいて──
それによっていやされる人がいて──
そのことを知らされる人がいる──
という3点の構図です。
この小さな喜びの構図の中で、ペトロは語りました。
「救われるべき名は、天下にこの名のほかには…ない」。
この言葉は、ペトロが自分の喜びを最大限に表した、
という意味で聞くべきであり、
科学的世界観や一般論のなかで、
絶対的な主張を説くための言葉ではありません。
傲慢とか優越のための言葉ではなく、
この喜びを万人に知らせたい、その気持ちを表す言葉です。
ペトロはうれしいのです。
神様に感謝しているのです。
神様がイエスの名を通して、自分たちを救い出してくださったことが。
無気力や絶望や、その他もろもろのことから。
罪に起因する滅びの力から。
ペトロはここで、いやされたこの人の気持ちを代弁しているのです。
「神様、ありがとう」と。
こんな喜びは世界でたった一つです、と。

(教会の庭のヒルガオ)
8月に入り、テレビでは「戦争関連」の報道が増えます。
教会では何を祈りましょうか。
皆さんそれぞれに何かを祈られるのでしょう。
戦争という大きな構図の中では、何を語っても無力に思えます。
けれども、大きな構図は動かせなくても…
その中にある小さな構図に驚くときがあります。
戦場で死に面したときに、たとえば一杯の水を求めて…
その一杯の水をくれた人に、「ありがとう」と言って…
死んでいった人たちがいます。
戦争それ自体に何も良いことが無くても、
その中にさえ「ありがとう」という感謝の言葉があるのは、
なぜでしょう。
大きな構図の中に真理があるのではなくて…
人から捨てられていく小さな構図の中に真理があるのでしょう。
その構図の中でしか語られることのない、真理が。
皆さんは、この夏、誰に、何に、「ありがとう」と言いますか。
まことの平和のための、この大切な言葉を。
(以上)

サルスベリの花。
暑さが真っ盛りでも、こんなに赤く、冴えた色で咲く。
遠慮などしていない。