(教会の庭にて。花の名はキョウチクトウ)
2011年 7月24日(日) 京北教会 聖日礼拝
聖書 使徒言行録2章37~47節
説教 「祈りは、ちぎり絵のように」
讃美歌21 484、361、483
出席者 23名
初めての方が来られた。
神様の祝福を祈ります。
うれしく思っています。
力が与えられますように。
恵みが与えられますように。
教会に来られる一人ひとりに。
礼拝後のお茶のときの御菓子。
教会が平日に集会室をお貸ししている、あるコーラス・グループの方からのいただきもの。ラスクという。美味でした。ありがとうございます。
礼拝を終えて遠い路を帰る方は、こうして少しつまむものが、力になるのだと思う。用意していただいたラスクと、プリンを今日は礼拝後にいただきました。プリンは市販のものなので写真はなし。
京北教会では、食の安全のために、礼拝後のお茶の御菓子類は、夏場は手作りを控えて市販品を使うことに決めている。
先々週から京北教会に導入された、集会室用のアンプ付きスピーカー。お茶のときの司会者がマイクで話すときのために使う。
スピーカーが重みでイスに、めりこまないようにと下にしいていた、むきだしの段ボール板を、教会員がきれいな布でつつんでくださった。
ありがとうございます。
先々週のブログ写真を参照していただくと「包む前・包んだ後」の違いがわかります。見た感じが全然違う。ご配慮に感謝です。
このスピーカーは今日も使いました。耳に遠い方にも無理せずに司会者の言葉を聴いていただくためにこれから使い続けます。
このスピーカーは、本当は人間の声を大きくするためのものではなく、エレキギター用のもの。10年ぐらい前に購入して、ほぼ全く使うことなかったために人にさし上げたが、その方も全く使わず、結局元に戻してもらいうけたまま、何にも使わずに置いていたもの。
長い間なんの役にもたっていなかったエレキギター用のスピーカーが、ついに、こういう使い道で働き出すことになった。司会者は声を張り上げなくてよくなったので、このスピーカーに感謝している。
なんのためにエレキギター用のスピーカーを購入したのか…それはギターを弾くためにほかならない。
ではギターはあるのか? あります。
スタインバーガー・スピリッツという名前のギター。
写真は少し下から見た視点で撮影。
ちょっと他に無いデザイン。人によって好き嫌いがあるだろう。
このギターは、子供のときの事故で、左手の指に残った障害を克服するためのリハビリのために普段使っている。エレキギターのやわらかい弦を、左手の指でスライドしたりひっぱったりすることを繰り返すことで、指の神経の微妙な感覚が回復してくる。そのために毎日このギターを手に持つことになる。いつになったら「普通の」指になれるのかなと思いながら…。そんなわけで、ちゃんとした曲はひけない。いつも同じ練習フレーズを指のリハビリのために繰り返すだけ。それでも、おもしろい。およそ楽器らしくない使い方をされている可哀想なギターかもしれないが、持ち主は愛着を持っている。
さっきのスピーカーにつないだら音が出る。けれども、今までにほとんどつないだことはない。スピーカーを買ったときには、いつかこれで音を出そうと思っていたのは確か。けれども、そんなに早くに指は回復しなかった。今でも左手はぎごちない。本当に、いつになったら…と思いながら経った、この10年間。長いと言えば長い。苦痛といえば苦痛。けれども、それ以上に、わずかずつでも回復するということの喜びには代えられなかった。
代えられない…という言葉で思い出したのは、
「キリストには代えられません」という題名の讃美歌。
歌詞は次の通り。
キリストには代えられません
世の宝も また冨も
この御方が 私に 代わって死んだゆえです
世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け
キリストには代えられません
世の何ものも
(讃美歌21─522番 1番の歌詞 日本基督教団出版局)
メロディーが美しく、心の高鳴るものを感じる讃美歌。
しかし、この歌詞を読んで、その意味を考えたときに、
ふと心がうずくような気がする。「キリストには代えられません、世の何ものも」、この歌詞を本当に自分の「本音」だとして心から歌えるだろうか?
むかし、教会で聞いた祈りの言葉に、どうしてもうなずけないものを感じたことがある。それは「神様、人間の思いではなく、ただ神様の御心のために全てをなしてください」という主旨の祈りの言葉だった。人間の思いが何にも通らなくて、ただ神様の心だけが通るように…そんなふうには、思えなかった。神様も大切だけど、人間の、というか、この私の思いが通ることが何にも無ければ、祈ることに何の意味があるのだろうか? と感じたのだ。
何年か経って、わかった。そのように祈るときには、「人間(私)なんてどうでもいい、神だけが大切だ」と冷たい気持ちで祈っているのではなくて、「神様が、人間(私)を大切にしてくださらないわけがない」と信じる暖かい気持ちで祈っているのだ。
そのことと同じで、「キリストには代えられません」と歌うとき、そこでは「キリスト(救いの主)以外のことはどうでもいい」という冷たい気持ちではなく、「キリストは、必ず私たちを幸せにしてくださる方なのだから」という深い信頼が歌われているのだと思う。そう思うときに、この讃美歌を心から歌うことができるのではないだろうか。
曲が弾けないギターにすら愛着を持つ人間がいるように、キリスト、神様、教会、それら以外のたくさんのもの(その中には、本当にささいなものも含めて)に、愛着を持つ、私たち。自分、家族、友人、職場、地域、文化、など、私たちはいつもたくさんのことを同時に大事にする(しなければ生きていけない)人間である。
そうした、ありのままの人間であることをやめて、神を信じるというのではないのだろう。
今日の礼拝の聖書箇所に、こんな言葉があった。
「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録 2章39節)
約束は誰にでも与えられている。その神様の懐の広さを信じて、「人間の思いではなく、神様の御心の通りになるように」と祈ってみよう。
暑い日が続きます。
どなたもお気をつけて。