京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「祈りが変わること」(ヨナ書2章)

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 雨の日曜日。風もあり、歩きづらい日。礼拝出席22人。雨の強さに、出席を断念せざるをえない方からは朝、教会に電話がかかってきた。今日は礼拝出席が少ないかなと思っていたが、多くの皆様が雨の中を来られた。遠方からの方、そして、しばらく風邪をひいて礼拝を休んでおられた方も回復して、来られた。

 今日から始まった、京北教会のちっちゃな新企画は、礼拝後すぐに引き続いてすぐに行う「こころで歌おう~新旧讃美歌から一曲」の時間。

 自由参加。急ぐ方はどうぞご自由にお帰りくださいと言って、始める。

 今日は、讃美歌21の57番「ガリラヤの風かおる丘で」。礼拝でのオルガン奏楽者にも、この時間には一緒に歌っていただくために、伴奏はヒムプレーヤー(自動演奏機)を使う。

 昔は「讃美歌練習」と言っていたが、それはやめにした。「練習」は、どうしても「訓練」されたり「きちんと歌うこと」を強いられるかのような気分になったときには、楽しくないからである。また、新しい歌を、次々と歌わされるのも楽しくない。私たちが好きだった歌が、まるで歌うことを禁じられたかのように、消えていくのはなぜか。教会が歌い継いでいかなければ、どこが讃美歌を歌い継いでいくのだろう。讃美歌は、新しいのが良いか、古いものが良いか、という判断には意味がなく、良い讃美歌を選び、その命を見失わないという判断にこそ、意味があるはずだろう。

 以下、讃美歌21─57番「ガリラヤの風かおる丘で」について、歌の合間になされた、司会者による解説。

 「この讃美歌21の57番の作曲者がどなたであるか、ご存じですか。難しい漢字のお名前が讃美歌の上のほうに小さく書いてありますね。これは、『まいた・しょうこう』さんとお読みします。ご存じという方はおそらくいないでしょう。
 しかし、皆様は、昔のテレビドラマに『鳩子の海』という番組があったことを覚えてはおられませんか。その音楽を作曲された方なんです。また、もっと有名な番組では、『ウルトラセブン』や『帰ってきたウルトラマン』、最近では『ウルトラマンコスモス』といったウルトラマンシリーズの音楽を作曲してきた方なんです。ペンネームは冬木透さんとおっしゃいます。
 その方が、カトリック教会で歌う讃美歌として作曲された讃美歌が、この57番です。これはいろいろなところで親しまれるようになり、讃美歌21にも収められました。
 皆さんは、讃美歌というと、それは聖なる場所で作られて、聖なる場所で歌われる特別なものだと思っていないでしょうか。けれども、讃美歌は本当は、いろいろな世の中の出会いを通して生まれるのです。冬木さんは、40年以上もテレビドラマの作曲家をされてきました。テレビドラマを見る無数の大衆のための音楽を作ってきた方だと言ってもいいでしょう。そのたくさんのお働きをすることの中から、つむぎだされて生まれてきた曲です。では、みんなで歌いましょう。」

 来週は、讃美歌1編の517番「我にこよと主は今」。久しぶりに歌う讃美歌となる。

 先週、北白川にあるバプテスト病院の昼の小礼拝に、京北教会牧師が、説教者として招かれたときに、みんなで歌った讃美歌。この病院ではよく歌われていて、皆様がなじんでおられるとのこと。教会で歌われることが少なくなった讃美歌が、教会でない場所で歌い継がれている。命は、命を継ぐ者のところにある。

 この病院での昼の小礼拝の説教奉仕をさせていただくにあたり、バプテスト病院のお二人のチャプレン(病院専任の牧師、カウンセラー)の方はじめ、たくさんの方にお世話になりました。感謝を申し上げます。



 5月22日(日)京北教会 聖日礼拝
 聖書 ヨナ書2章1~11節 
 説教題「祈りが変わること」
 讃美歌21  211「朝風しずかに」
        502「光のある間に」
        504「主よ、御手もて」

 礼拝説教要旨

 旧約聖書にはヨナ書という短い物語、文学作品がある。
 ヨナという人が、神様から一つの使命を与えられたが、ヨナはそれを嫌って逃亡して海を渡ろうと船に乗った。ところが海は嵐になり船は沈みそうになった。船客たちが、なぜこのようになったのかと問い合ううちに、ヨナは自分が神の前から逃亡したことを告白する。神の怒りだと考えた船客たちはヨナを海に放り込む。
 ところが神様は大きな魚に命じてヨナを飲み込ませて助けた。ヨナは魚の腹の中で、自分の命を救いだしてくださった神様に感謝の祈りを神に献げた。魚はヨナをはきだし、ヨナは一命をとりとめた。
 陸に上がったヨナは、今度は神様に従順に使命を果たそうとする。その使命とは、ニネベという大きな都に行って、その都において神への信仰から離れて身勝手に生きている人たちのために、将来この都は滅びるということを宣告することだった。
 ヨナは、かつては、そのような使命を恥じて──どうせそんなことを宣告しても、誰も信じてくれずに恥をかくだけだろうと──嫌ったのだが、自らの命が救われた体験によって心の向きを変えて、神に従順な気持ちになり、確信を持ってその使命を果たす。ヨナは都で将来の都の運命を宣告した。40日の後に都は滅びると。
 それを聴いた都の人たちは、王を含めて皆が今までの生活を反省し、悔い改めて断食した。すると、神様は都の運命を変えて、都が滅びないようにした。これは都の人たちにとっては素晴らしいことだったが、ヨナにとっては耐えがたいことだった。なぜなら、そうなるとヨナは結局、都が滅びるというデマを流した大うそつきになってしまうからだ。
 ヨナは恥に耐えきれず、神に対して怒る。そして都の見える高台に行き、都が滅びていく運命(神が真実な方であるならば、必ずそうなるべきとヨナが信じている運命、神の預言の成就)を見届けてやろうと座り込んだ
 座り込んだ場所は、日差しが厳しいところだった。それを見た神様は、一本の木をヨナの近くに、一晩で生やして成長させ、その陰がヨナの日よけになるようにした。ヨナはそれを喜んだ。しかし次の日には木は枯れて、また日差しがきつくヨナに当たった。ヨナは強い日差しに照らされて、弱り切る。
 恥と怒り、腹立ちの心に満ちたヨナに日差しが強く当たる。ヨナは疲れて弱り、もはや死んだ方がましだと弱音を、神に向かって吐いた。
 そこに神様からの言葉が与えられる。ヨナが、自分が植えたのではない、一晩に生じて一晩で枯れた木を惜しんでいるように、私は、都に生きる大勢の「右も左もわきまえない人たち」のことを惜しんでいる、と。

 このヨナの物語を、過去さまざまな人が、「自分自身のこと」として読んできた。神から与えられる使命から逃げた自分…神が心変わりしてくれることを祈る自分…逃げた所で困難に出会い、人から捨てられる自分…そこで意外なことによって救われる自分…暗闇の中で神に感謝の祈りを献げる自分…そこから回心して使命を果たそうとする自分…ところが使命を果たしたのに思ったような結果が与えられずに恥をかいて、そのことを神に対して怒る自分…弱り切って、死んだ方がましだと、神に願う自分…最後に、神から全てのことの意味を教えられる自分…。まさに、ヨナは、信仰者にとっての「自分自身」である。

 新約聖書では、嵐の湖で沈みそうになる船の中で、「私たちがどうなってもいいのですか」と弟子達から憎まれ口をたたかれたイエスの話がある。イエスは嵐をしずめ、船は無事に助かる。この話は昔から、教会を船にたとえた話として読まれてきた。船は、果たすべき使命を神様から与えられている限り沈まないのである。しかし、ヨナのように使命から逃れようとするときには、沈むかもしれないのである。そのとき、使命から逃げ続けるのではなく、その場における困難の海の中に放り込まれ、大きな魚に飲み込まれるようにして、信仰者は神の与える使命を果たす場へと戻っていく。

 ヨナ書を読んでいると、ヨナの祈りの方向が、ころころ変わっていることに気づく。ヨナ書は4章しかない短い物語だが、章ごとに変わっているともいえる。これは、ヨナがいい加減な人物だったからではない。もともと人間の祈りとは、このように変わりゆくものではないだろうか。

 ヨナ書は、イエス・キリストの生涯が記されている福音書のような意味で重要な文書とは言えないだろう。少し軽い言い方がゆるされるならば、ヨナ書は「こばなし」「ちょっとした、おもしろい話」のレベルであるとも言えよう。といって、荒唐無稽な、どうでもいい話というのではなくて、ヨナ書の役割は、読んだ人がヨナのこっけいさを笑いつつ、「これは自分そのものだ」と、さらに自分自身の「信仰」の姿をユーモラスなものとしてヨナに重ねて、笑うためにもあるのではないだろうか。

 人間の信仰、人間の祈りは、状況によって、ころころ変わる程度のものであろう。そのことを自らで責めたり、恥じたり、苦しんだりすることもあるだろう。私はそんなことばかりです、という信仰者も多いのかもしれない。
 
 けれども、信仰ということについて、誰にも、苦しみすぎないでほしいと願ってやまない。過去を振り返って、自分の祈りがころころ変わってきたことを思い出しても、そのことをつらく思い返して、自らを責めないでほしく思う。

 責めるのではなくて、笑ってみたらどうだろうか……。
 私たちは、ヨナを見て笑うことができるのと同じように、自分自身の信仰の歩みを振り返って、笑うことができる、という恵みを神からいただいている。ころころと祈りが変わる、どうしようもなく欠けた信仰者としての、自分自身の生きてきた道を、どうか笑ってしまうことができるように。そう祈ろう。

 なぜならば、信仰は、私たちの信念の強さにしたがって存在するのではないからだ。信仰は、私たち一人ひとりを「惜しむように」愛する神様からのいただきものである。信仰は、贈り物として存在しているのであり、信念や修養によって存在しているのではない。

 ヨナをとことん惜しむように愛された、神様。
 その、神様からの贈り物の物語を、ヨナ書に見いだそう。
 自らの祈りがどれだけ変節したとしても、神様からの新しい使命をいただくことによって、またも信仰者は生きる。そのことに心を向けよう。

                            (以上)



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 この日の午後、京都教会で、教会主催のチャペルコンサートとして、東日本大震災のチャリティーコンサートが開かれた。写真は、メインの若いギタリストが登場する直前。アコースティックギター演奏のためのスピーカーが二台、パイプオルガンの前にセットされているのがわかる。ライブでは、軽妙なトークと超絶フィンガーピッキングによる素晴らしいギター演奏でみんなが共に楽しい時間を過ごした。ギターとパイプオルガンの共演も披露された。たくさんの方たち、様々な世代の人がコンサートに来ていた。主催者の京都教会の方々をはじめ、出演者、ご準備いただいた皆様に感謝。

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夕方。
 京都教会から京北教会まで延々と歩いて帰る。
いつしか、晴れていた。
京北教会の生け垣には、たくさんの白い花。
最初は赤い花に目がとまった。そして全体をゆっくり見た
どの花も、夕方の光を惜しむかのように浴びて、小さく輝いている。

赤い花は、ミニチュア・バラ。
白い花は、スノー・ドロップ。