2011年 5月15日(日)礼拝 出席20名。
礼拝後、「お茶と祈りのとき」。出席19名。
祈りの課題 個人消息、震災復興支援、京北教会の新しい企画(讃美歌について)など。
よく晴れたこの日の午後、「お茶と祈りのとき」を終えて、私たちはそれぞれの場へと帰っていった。
なすべきことをしたあと、私たちの帰って行く足取りは、軽やか。
私たちの、ゆっくりとした足取りを見ていてくださる方によって。
教会庭の野いちご。本当に小さい。
しかし、たくましく実っている。
草の持つ、大胆な天然の力を、赤く表しながら。
祈ることも、神様から与えられた天然の力であるならば、
この野いちごの、小さくとも強い赤の色のように、
活き活きと輝くのではないだろうか。
2011年5月15日(日)京北教会礼拝説教 (要旨を推敲して掲載)
聖書 哀歌 2章11~14節(新共同訳p.1287)
「海のように深い痛手を負ったあなたを、誰がいやせよう。」(13節)
題「海のように深い痛手をも」
今日の聖書箇所は旧約聖書の「哀歌(あいか)」からです。この哀歌とは、字の通りに哀しみのうた、詩です。哀しみの言葉しかないといってもいいような詩です。戦争によって街が荒廃し、人々の命が失われていくさまを深い哀しみをもって記しています。
「幼子は母に言う、パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。
都の広場で傷つき、衰えて、母のふところに抱かれ、息絶えていく。」
これは、食べ物はどこ、飲み物はどこ、と、母のふところの中でつぶやきながら命を終えていく子どもの姿です。
このような聖書の言葉を読むとドキッとします。このような情景の描写が聖書の中にあるということにもドキッとします。もっと明るい希望の言葉を聖書において読んだほうが、人の心は気分がよいはずです。なのに、なぜ、このような詩が聖書の中に納められているのでしょうか?
このように問いたくなるのは、ここに記されたような現実が現在も様々な形で存在しているからでしょう。昔ばなしや、宗教の教典の中にあるお話ではありません。戦争や自然災害や、貧困、飢饉などの様々な現実の中においてあり得ることです。(自分自身に起こるとは想像したくもないとしても…)
「海のように深い痛手を負ったあなたを、誰がいやせよう。」(13節)
海…それは深みへと、どこまでも続いていく未知の領域です。
海の底というのは何メートルあるのでしょうか。科学が進んだ今では、ある程度そういうこともわかるのでしょう。しかし、人間にとって海というのは、もともと、底なしの深みを示しているものでもあります。もちろん、浜辺で海に足をつけることができるのですから、そこから考えれば、どんな深い海だって必ず底はあるはず。けれども、深い海の底は、あるのだろうけれども、そこは、決して人がたどりつけない場所です。
言葉を失うような悲惨を心に感じるとき、私たちの心は底の無い深みに沈んでいきます。どこかで底について、そこからはい上がってくることなどできるのでしょうか。底なしの深い痛手を負った「あなた」が…。
あなた、とは誰のことが言われているのでしょう。聖書を読む一人ひとりのこととも言えますし、この哀歌で描写されている人たちのこととも言えましょう。
けれども、これはとても大事なことですが、旧約聖書で「あなた」と言われているのは、ときに「あなたたち」のこと、「民」ということです。
その「民」である「あなた」に向かって哀歌の言葉が続きます。
「あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。」
「あなたを何になぞらえて慰めよう。」
「海のように深い痛手を負ったあなたを、誰がいやせよう。」
あなたの悲惨は、何にも、たとえられないし、何かの、意味の証しにもできないし、あなたを、誰もいやすことはできない、というのです。
これでは、徹底して希望のない言葉であるとも読めるでしょう。
誰も慰めてくれなくても、「神なら、きっと……」と希望がある言葉を期待して、
聖書を読んでも、この哀歌は、最後の最後まで、
哀しみの叫びとつぶやきの詩です。
なぜ、底なしの哀しみばかりが言われているのでしょうか?
そして、そのような文章を、なぜ、私たちは「聖書」の一部として読まねばならないのでしょうか?
疑問はつきることがありません。
ある神学者の自伝的な内容を含んだ本を読んだときに、心に残ることが書いてありました。ご家族の一人が重い心の病になられてから、聖書のことばをその方と一緒に何度も読んだ。それは、そのご家族と共に歩もうとしてのことだったのですが、そのご家族が亡くなられてから思うことは、希望を示す聖書の言葉ではなく、むしろ苦しみをあらわしているような箇所をこそ、一緒に読むべきだったのではないか…そのような内容だったと記憶しています。
おそらく…
哀しみの光によってこそ、心が照らされるということが、あるのです。
哀しみの光によって、わたしたちが、神様から見つめられていることを知るという経験が。
私たちは、その光の中に沈み込んでいく中で、生きるのです。
それは、現実のあらゆる悲惨な苦しみを、「神」を持ち出してきて美化・正当化することではありません。
現実に対する人間の解釈とは関係なしに、神様の側から来る、人を照らし出す光が、底なしの海に沈み込んでいく人の姿を発見し、見失わないでいてくださるのです。
その光の中にいさせていただくこと以上に、私たちが、何かしなければならないことがあるのでしょうか?
おそらく…きっと…もう、いいのです。
もうすでに…海のような痛手を負って沈み込んでいる人にとっては。
「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには、ひとたび、罪をあばくべきなのに、むなしく、迷わすことを、あなたに向かって告げるばかりであった。」と14節では言われています。
罪をあばく? ひどい言葉です。苦しんでいる人に向かって、その罪をあばくとは? 苦しむ人をさらに苦しめるかのような、この言葉に、読む人は戸惑わざるをえません。ひどい言葉に思えます。
けれども…ここで言われている「あなた」とは、どこかで苦しんでいる誰かさん、のことではなくて、「民」全体のことが言われているのです。今風に言えば、「国」「社会」「生活共同体」というように言えるでしょうか。
そして、ここで言われている、預言者とは、未来を予言する人のことではなくて、神様からの言葉をあずかって人に告げると自称している者たちという意味です。それは、何かあったときに、「神」を理由に持ち出してきて、ものごとを正当化して、人を安心させてしまう存在です。(誰だって、ときには自分でも気づかないうちに、いつしか、そんな存在になっているかもしれません)
また、ここだけではなくて、聖書全体を通して語られている「罪」とは、いわゆる犯罪とか道徳的に悪いことという意味ではなくて、神様との関係がまっすぐではないこと、人間が神様の前から外れていって、神様との間が不自然な関係になってしまっていることを指しています。
民が、そして一人ひとりが、その苦しい状況から立ち直るためには、神様との関係を正しく自然なものに回復しなければなりません。けれども、人の心を喜ばせてサービスしてくれる、偽りの預言者は、そのことを言わないのです。その結果、私たちは民全体として、自らの罪の中に沈み込まざるを得ません。
海のように深い痛手を負いつつ。
罪、それは、決してあなただけの何かの落ち度のことではありません。そうではなく、人間の作り出してきた世の中にあって、人間を隠れて支配している悪しきものです。
偽りの預言、それは、たとえ人間的な知恵や、善意の言葉を含んでいたとしても、決して人を本当には慰めたりはできない存在です。
その罪、そして世に満ちている偽りの預言、それらと対峙するものは、なんでしょう。聖書にはそれがあると言われている、それとは…。
それは自らが神様の前から姿を隠してきたこと、自分と神様との関係がまっすぐではなかったことを悔い改めて、偽りの言葉に惑わされずに、人が人として、神の前に立ち返って、知恵深く生きることを教える言葉です。
神様の知恵は深く、人の生きることの苦しみの深みへと届きます。人がこしらえた理屈を飛び越して、神様が、人の苦しみを、神の哀しみをもって照らし、その苦しみを「あなた」に代わって神様が負ってくださることを伝えています。イエス・キリストを通して。
けれども、このことを聴くと、心にひっかかりを覚えた方は、次のように思うのではありませんか?
…ああ、それが本当のことだったら、どれだけ良いか!
…でも、結局、それは、「キリスト教のお話」ではないですか! …と。
そうですね…そんな甘くないですよね、きっと。私たちの日常は。
けれども…本当のことなんですよ。
哀しみの光に照らされて、私たちは神様に発見されている自分を知ります。そこから、全てがもういちど、神様との間でやりなおせるのです。
その光に照らされることには、ずいぶんな勇気がいるように思えますが、本当は、勇気のあるなしには、あまり関係ないのでしょう、おそらく。
ただイエスが共におられるがゆえに、私たちは、その光の中に、神様の勇気によって、すでに…住まわせていただいているのです。
暗がりに届く、神の哀しみの光の中に、住まわせていただけるのです。
お祈りします。
(以上)
教会の生け垣のとても小さなバラ。
ある日、ふと見ると咲いていた。
本当に小さいことに驚く。