今日は教会は、教会の暦にそって、イースター(復活日)の日。
聖書に記された物語にそって、イエス・キリストの復活を記念する日。
イースター礼拝の中で、聖餐(せいさん)式を行う。
写真は、京北教会の聖餐式で用いるパンとぶどう果汁。
小さなグラスと一切れのパンが一人分。
聖餐式の用意は、朝9時半に準備の方と牧師でお祈りすることから始まる。
今日も、聖餐式の準備を、担当の方が手際よく整えてくださった。感謝。
以下、今日の教会の礼拝などの概要。
2011年4月24日(日)イースター(復活日)礼拝
午前10時30分~11時40分
招詞 詩編121編7~8節
「主が全ての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そして、とこしえに。」
讃美歌 575「球根の中には」
交読詩編 100編 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」
「…マリアは言った。私の主が取り去られました…」
「イエスは言われた。婦人よ、なぜ泣いているのか。
誰を捜しているのか。」
讃美歌 326「地よ、声高く」
説教
讃美歌 510「主よ、終わりまで」
(冒頭の司式者の言葉)
「聖餐式は、主イエス・キリストが自身を「パンとぶどう酒」にたとえて、共にそれを食することで弟子達がキリストと共に生きるようにと願ったものです。この聖餐の意味を知って受けていただくために、すでに洗礼を受けた方にのみ、パンとぶどう果汁を配餐します。
未受洗の方には、このときを信仰への招きについて考えるときとしてくださいますように願います。信じる道、洗礼は、一人ひとりに向けて開かれる道です。洗礼を受けることについて、ご遠慮無く牧師にご相談ください。
主イエス・キリストと共に歩むために!」
…
礼拝出席者 33名
礼拝後 軽食、その後に2011年度定期教会総会
総会前の軽食として、タケノコご飯を用意してくださった。つけあわせは豆の煮物とゴーヤのつくだに。とても美味。おかげで(?)総会もスムースに終了し、ほんわかと満ち足りた時間となりました。朝から食事のご準備をいただいた皆様に感謝。
上の写真は、礼拝後に出席者に配った「イースター・エッグ」。ヨーロッパの教会の古くからの習慣で、イースターの日の朝、庭のあちこちにゆで卵を隠しておき、子ども達が見つけてまわる。(当然、その後に食べる) 卵を見つけることに、新しい命の発見という意味がこめられている。かわいい遊び。ゆで卵の殻に絵を描いたり、ラッピングしたりして素敵な卵にする。
降ったり晴れたり、の天候の日が続いている。
教会の庭に出ると雨上がりのしずくが花に付いて光っていた。
本日の礼拝説教要旨
説教題「復活を世に残して」
教会の暦で受難節(レント)の期間が終わりました。この期間は、イエス・キリストの十字架の受難を想うときであり、同時に、自分自身の十字架、受難について想うときとされています。皆様はこの期間、何を思って過ごされたでしょうか。一人一人に生きることの重荷があり、思いもかけない受難があり、私たちはその日その日をあれこれ思い巡らしながら、ときには自分の苦しみなんてもうどうでもいいやと思ったりしながら…でしょうか。それぞれがそれぞれに歩んでまいりました。
受難節というのは、教会の暦のことだけではないように思えます。世に生きる誰にでもそのような期間がありえるのではないでしょうか。東日本大震災の被災地にあって歩んでいる教会の方々が、今日のこの日、イースターをどのような気持ちで守っておられるのか、わかりません。しかし、受難節は昨日で終わりました。今日は、イエス・キリストの復活を記念する礼拝の日です。イースターです。
聖書を読んでみます。今日の箇所には、マグダラのマリア(イエスの母マリアとは違うマリア、イエスの宣教に従った人物)が泣いていたと書いてあります。なぜ泣いていたのでしょう。それは、イエスの十字架の死の三日後に、イエスの墓に(なきがらに、植物からとれる香りの良い成分を塗る習慣を果たすために)やってきたのに、その墓にイエスのなきがらが無かったからです。
マリアは何のために、イエスのなきがらのところにやってきたのでしょう。それは三日前に見届けた十字架上での死の後に葬られたイエスの墓に来て、そこで習慣にそって葬りの手順を踏むことによって、自分の心の後始末をするためでもあったと思えます。葬りの後始末…それは、人としてそうすることが大切なことであることは言うまでもありません。でも、それだけではなく、人を見送ったあとに、残された者が自分の心の後始末、整理をつけるための時間でもあります。その時間を持つことによって、だんだんと心の整理がつけていくのです。
ところが、イエスのなきがらにマリアは出会うことができませんでした。墓の中は空であったと聖書には記されています。これでは、自分の心の後始末すら、できません。
マリアは涙をながしました。この、可哀想な、自分のために。
うしろから声がありました。誰を捜しているのか…と。(マリアにはそれは墓のある園で世話をする園丁の人からの問いかけに思えました)
マリアは、答えます。「あなたがたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
マリアは、イエスのなきがらを引き取ろうと願い出ています。マリアは、そのことによって、イエスの死の全てを自分の腕の中におさめて、自分が全てのことを引き取り、自分が責任をもって全てのことに対処しようとしています。「わたしが、あの方を引き取ります。」それは、自分の悲しみも苦しみも、イエスのことも、全て私がこの腕の中に引き取って、私が引き受けます、という悲壮な決意でありました。
誰かが私の苦しみを引き受けてくれるわけではないのだから、私は私の苦しみを全部自分で引き受けます、という決意。
そのとき、イエスが「マリア」と名前を呼びます。そこには、イエスのなきがらがあるのではなく、イエスがおられました。このとき、マリアの心に、イエスの言葉が飛び込んできました。マリアの名前を呼ぶイエスの言葉が。
そのときに、マリアの悲壮な決意──これは私の悲しみだから、そのすべては私の責任なんだ──が、無に帰しました。そこに、主がおられたから、もはや、マリアは、もう悲しみを背負わなくてよくなりました。マリアのあらゆる受難が、無に帰しましたから。イエス・キリストの十字架と復活を通して。
そのとき、私たち一人ひとりの「受難」が無に帰すのです。
ここで、復活ということについて、少し考えてみましょう。
イエス・キリストの復活とは何か…それは、説明することも、納得することも、難しいことですね。
「そんなことを、本当に信じているのですか」と意地悪く尋ねられたら、私たちは、誰もがシドロモドロになって口ごもってしまいます。何かを答えなきゃ、と思いながらも、人が納得するような言葉は出てきません。そして何となく気まずくなり、最後は沈黙で終わってしまうのではないでしょうか。日曜日に教会に通っていても、平日の日常生活に帰ると、そんな気まずい、寂しい沈黙が時折に、生活の中で出てくることがあるように感じます。人に伝えることができない、気まずさ、寂しさ、孤独感。やるせない感覚……。
先日、渡辺二郎さんという哲学者の『芸術の哲学』という本を読みました。その中で著者は、芸術がなぜ人間にとって大切かということを哲学的に研究して語っています。芸術はなぜ大切なのか。芸術は、それ自体はただのモノであるもの(絵の具、楽器など)を用いてなされる、虚構(作られたもの、現実ではないもの)であると考えたときには、芸術は実学(経済、政治、社会など)に比べて劣ったものだと考えられる。しかし、芸術とは、そのようなものではない。本当は、芸術は、単に虚構やモノなのではなくて、人間にとっての真理、真実(形にできない大切なもの)を、絵画や音楽や演劇などの手段を通じて人間に発見させる「発見的装置」であるがゆえに、芸術は他にかえることのできない重要なものなのである…。
そんな主旨のことが書かれていました。ここには、私たちが聖書を読むときの一つのヒントがあるように思えます。
というのは、私たちは、聖書に記されたイエス・キリストの復活ということ、それ自体については事実関係を説明することができないからです。そして、この「説明できない」ということにこだわりだすと、イエス・キリストの復活の意味を見失ってしまうからです。
私たちは、復活について説明することはできません。けれども、私たちは、イエス・キリストの復活について聖書に記された言葉を通して、何かを発見することができるのです。そして、そのときに、復活ということが、ただ文字を読んでいるだけのときとは違った意味を持つのです。
何を発見するかというと、あなたが神様から発見されているということ、そのことを発見するのです。
復活なされたイエス・キリストがあなたの名前を読んでくださるときに、イエスの言葉が心に飛び込んできます。そこで、私たち一人ひとりの生きることの受難が、苦しみが、悩みが、人間として存在するがゆえのあらゆる苦悩が、(神様の計らいによって)無に帰すのです。
「私は、主を見ました」!
そこから、「教会のイースター」が始まったのです。
(以上 礼拝説教要旨)
教会の庭。雨上がりのタンポポ。種子は雨の中で飛ばされるようにしてであっても、地に降りたって芽を吹く。
ひいらぎの葉。雨上がりに輝く。ひいらぎはクリスマスの飾りのためにあるのではなく、イースターにも輝いて、とんがって、きらめいている。
それぞれに、天然の幸が輝いている。
雨のあとは、いつもよりも…。